優秀伸び

数か月前の観照塾で、脊柱を伸ばしたまま、股関節から体幹を傾ける動きを稽古しました。
その時、私は膀胱経が伸びていくよりも先に、腰椎を後弯させて代償してしまっていることに、ようやく気付くことが出来ました。
下位腰椎を反れないと、骨盤や股関節の働きが狭まり、下肢と体幹が繋がりにくい姿勢になってしまうことを自覚できました。
それ以来、呼吸と共に起こる身体の反る丸める動作を見直しています。

体幹を前屈したとき、仙骨と後頭骨の間に架かった吊り橋のように体幹を重力に任せることが出来ると、腹部の皮膚に重みに沿った撓みを感じられ、いかに腹筋を縮めていたかを実感しました。
腹部が伸びているときは、思っているより股関節が後方にあり、丹田からみると頭までの距離が遠くなったような感覚が得られます。
そうした姿勢がそのまま、吸い込みの深さや伝わる力の大きさにも影響しているように感じています。
腹部に、骨盤と肋骨下部を繋ぐ経路を感じられ、それが剣術の立て替えのラインと一致していることを感じます。
背骨を伸ばした姿勢で呼吸を通すことで、脊柱に備わった湾曲から、上方へ浮かす力と下方へ落とす力や、前方に向かう力と後方に引く力が同時に起こることを体感します。
四肢の先まで意識を通すと、指先が伸趾先を反らす働きが起こり、膝や股関節を弛めたまま動けることを感じています。

息を吸いながら横隔膜を均等に締めて浮かせると、中心の軸が伸び、それに伴って周りの経絡がさらに引き伸ばされます。
伸びにくい場所、左右の伸び方の違いなど、経絡を伸ばしたときのテンションのばらつきによって、自分の身体のバランスを観察しています。
全身の経絡が高まった感覚を維持したまま動こうとすれば、使えていない場所を働かせる必要があり、日常の動作を改めて見つめ直す必要性を感じています。
座っているときの骨盤の傾き、歩いているときの股関節の動き、施術するときの脚の使い方など、色々とテーマを変えながら観察しています。

自分が認識できていなかった癖に一つ気付くと、そこから芋づる式に身体の見方が変わっていくことがあります。
これからどんな発見が生まれるか楽しみです。

夕日

観察記録04

合気の稽古に参加させて頂くようになり、相手と向かい合って技を掛けたり、木刀を持って構えたりするときの、立ち方を指導してもらいます。
立っているときに、足が外に開いてしまっていたり、膝に力が入ってしまっていることにを指摘して頂き、そのことに初めて気付きます。
単に脚を閉じようと、足先から前に向けたり、両膝を寄せようとしても、あちこちに無理な力が掛かります。
別の部位の角度を変えたり、離れた場所に意識を向けたりすることで、力の伝わりが変わることを、技の掛かり方の違いとして体感させてもらいます。
そして、自分自身の中央の感覚と実際の身体の状況は、必ずしも一致していないということを実感するようになります。

普段立っているときにも、そうした偏りがあることに気付き、正座をしたり、椅子に座ったときの、足や膝の向きも意識するようになりました。
自分自身の重心に目を向けるようになり、足の外側に体重が乗り、一部の場所に負担を掛けてしまっていることを自覚します。
重心に偏りがあると、負荷やバランスの移り変わりに対して弱い方向が現れ、それを筋の働きや関節の負担で補って支える必要が生じます。
両手で回り切らないほどの太さの脚であっても、実際には使えていない場所が沢山あることを知ります。
足首だけ、膝だけ、を動かす動作から、呼吸と共に下肢全体が折り畳まれたり、伸びていったりする動きがあることを学びます。
趾から順に動きが伝わると、下肢が体幹に引き寄せられる感覚を得られ、それが骨盤の動きと繋がっていることを感じられるようになります。
また、空気の出入りと同調して、両脚は寄ったり離れたりもし、それらに対応して重心の位置も変化します。
骨盤の締まりや傾きによって、骨盤と大腿骨の接続する向きが変わり、脚を寄せようとしなくても膝が前を向き、重心が中心に近付くことを体験します。

そうした脚が骨盤と繋がって動く働きが、歩行にも表れていることに学びます。
それまで脚の前側を緊張させて足を上げていましたが、下肢を折り畳む動きによって浮かせることで、楽に足を運べることを体感します。
歩いているときの足の運びが、腕の揺れにも影響を及ぼすことに気付き、どういった関係性にあるのか色々と試しながら歩くようになります。
横向きで寝て、下肢と上肢の位置を変えながら、それらが釣り合う関係にあり、バランスが取れた時の心地良さを体験します。
そして、様々な動作を、個々の筋や関節の動きの組み合わせではなく、全身が協調して起こるバランスの変化として見ていく必要性を感じるようになります。

脚の力が抜けた状態を実感できるようになって初めて、それまで長時間立ったり歩いたりしていると、下肢の後面が疲れやすかったことに気付きます。
関節を伸ばしきったり、片脚に体重を乗せたりして、脚を直線的に使ってしまっていることを自覚するようになります。
下肢のバランスが取れる姿勢にあると、重力に伴う落下や地面から受ける反作用はどこにも滞らず、横から見たときに、踵や膝や臀部の丸みが後ろ・前・後ろと交互に向き、緩やかなカーブを描きます。
そして、その波は振れ幅を小さくしながら脊柱を通り、頭部まで繋がります。
足首が噛み合う角度に無かったり、膝を緊張させて突っ張ったり、鼠径部の溝を浅くしたりして、そうしたカーブを無くしてしまっていたことを実感します。

立っているときの足先が、意識しなくても前を向くようになった頃、寝ているときの姿勢も変わるということを体験します。
私はそれまで、仰向けで寝ているときにも、両側の足部が外に開いていましたが、それが、いつの間にか、上向きに近付いていることに気付きます。
足の向きが変わると、寝ているときに布団に触れる面も変化し、脚を伸ばして寝ている時にも、呼吸と同調しながら下肢が動いていることを感じられるようになりました。
そして、そうした働きが全身のあらゆる場所で起こっていることを体験し、呼吸の動きが胸やお腹だけに伝わっているものではないということを初めて実感します。
呼吸と共に骨が動いたり、皮膚がずれたりする様子を観察し、身体の表面の動きと、内部の動きを区別して認識できるようになります。

その後も、「個性」や「特徴」と思い込んで、気にも留めていなかった沢山の「癖」が、変わりうるものだということを、次々と経験します。

観察記録03

身体の変化は、意識の変化と同調します。
私がセンタリング呼吸法やバランス☆運動療法を通して学ばせて頂いているのは、考え方や遊び方、ひいては生き方そのもののように感じることがあります。

私は中高生のとき、様々な科目の授業を受けながら、普遍的な何かを学び続けたいという憧れがありました。
記憶に頼った学習は、学んでいく全ての内容を留めておくことは出来ず、時間が経つと忘れてしまったり、加齢と共に記憶力が低下したりします。
誰かが作った理論は、時代の流れと共に意義が変化し、それまで身に付けてきた知識や技術が役に立たなくなってしまうことがあります。
老荘思想への関心が強かった私は、それを基盤とする東洋医学に普遍的なイメージを持っており、高校を卒業後、鍼灸の専門学校に入学します。
学校では、教科書に書いてある経穴の名前を覚えたり、理論を理解したりと、それまでと何ら変わらない方法で勉強が進んでいきます。
ただ、鍼灸の勉強会に参加したり、治療に関する書籍を読み、実際に素晴らしい治療効果を出されている先生が居ることは知っていたので、このまま仕事を続けていけば、いつかそうした力が養われていくのではないかという漠然とした期待を持っていました。

今ひとつ方向性が定まらないまま、柔道整復の学校に通い始め、そこで御縁を頂いたM岡さんに声を掛けて頂く機会がありました。
最初はよく分からないまま、同級生が集まっての研究会に参加させて頂いていましたが、「奇経療法」をテーマに取り上げてくださったとき、私が鍼灸の勉強会で教わっていた内容と何かが繋がった気がしました。
当時は整理できていませんでしたが、理論として学んでいた経穴や経絡と、現実との間に、リンクするものを初めて感じたのだと思います。
その後、K野先生の主催されている観照塾を紹介して頂き、毎週土曜日に通うようになり、月一回の中心塾にも参加させて頂くようになります。

それまで経験の無かった呼吸法や合気の稽古に取り組む中で、気持ち良く身体を動かすことができ、治療を学ばせて頂くことができ、ブログを読めば駄洒落が満載で、なんと素晴らしい会だろうと感動します。
色々な道具を用いながら、力を抜いて動けるように練習し、それらの特性に合わせて身体を使っていくことを学びます。
身体の緊張が弛むと気持ちも楽になることを経験し、自分自身の身体を学ぶことが、心の在り方とも関わっていることを、様々な形で体験します。
また、会話やブログや書籍を通して、芸術、芸能、スポーツと言った、関心の薄かった分野にも、視野を広げるようになります。
そして、「学ぶ」とか「変わる」ということは、外から与えられる情報からではなく、それに向かう自分自身の内からであることに気付かせて頂きます。

稽古を通して学んだことが、人と人との関わり合いにおいても、共通することを感じるようになります。
人それぞれ、体格も性格も歩んで来た人生も違い、その時々によって調子が変化します。
多くの方に練習の相手をして頂く中で、相対した相手に合わせて力を抜いていくことが出来ると、伝わっていく通り道もあることを体験します。
自分自身の我によって、どこかに力が入っていると、相手を受け入れられなかったり、相手とぶつかったりします。
一方的に受け入れるのでも、一方的に押し付けるのでもなく、お互いが楽に通じ合える関係を築くことと繋がるように感じています。

鍼灸の資格を取り、治療院で働き始めたばかりの頃でも、施術をした後に楽になったと喜んでくださる患者さんがいらっしゃいました。
今よりも、治療の技術も見立ても拙かったと思いますが、治療の効果というものが、それらに因るものだけでは無いように感じることがあります。
人にも物にも元々、お互いに影響を与え合う力が備わっており、治療を学ぶということは、新しく知識や技術を身に付けることではなく、良い方向に導く働きを高めることにあるように思います。
与えられる影響力の大きさには、お互いの相性であったり、病の深さであったり、周りの環境であったりと、様々な要因が絡まり合っています。
そして、それらに広く深く波長を合わせられるようにしていくことが、治療効果の向上に繋がるのではないかと考えています。
そのためには、自分自身の身体や思考の偏りを少なくし、中心に近付けることが必要になります。
周りのバランスの中で、常に自分自身が変化できる位置に居続けることの大切さを学んでいます。

自分自身は不変ではありませんが、何時でも何処でも一緒に居る自分自身は、外界の他のどんな対象を学ぶよりも、普遍的な存在であると言う見方も出来ます。
これからも、様々なことを学んだり、経験する中で、センタリングし続けていきたいと思っています。
そして、私が、御縁を頂いた先生から、心身を観照することの喜びを教えて頂いたように、関わってくださる方に、こうした体験を伝えられるように、精進していきたいと思っています。

観察記録02

便宜上、目を向ける場所を変えながら書いていますが、内容は前回の続きという訳ではありません。
時系列で進んでいく一つの国の歴史ではなく、それぞれの国の出来事が並列しながら関わり合う世界史のような書き方をイメージしています。



武術の稽古に参加させて頂く中で、身体における意識の薄い場所を指摘して頂き、腹側と背側、外側と内側など、意識にばらつきがあることを自覚します。
そして、技を掛けるときに、使えていなかった場所が上手く働くように導いてもらうと、楽に動作を行えたり、大きな力を発揮できることを体感します。
自分自身の現状を認識するために、仰向けで寝ながら、背面の着き方や力の入っている場所を観察することを教えて頂きます。
横向きに寝たときには、前方に傾くような姿勢になっていることが多くあり、最初は肋骨や下肢の真横が着く姿勢に誘導して頂くと違和感を覚えた気がします。

姿勢を変えたり、枕や帯といった道具を利用することで、呼吸の通り方も変化することを体験します。
お腹に息を吸って、胸に吸い上げる呼吸を練習しながら、いかに腰や背中に、呼吸に伴う動きが伝わっていないかを実感します。
下腹部まで呼吸が入るようになってくると、お腹と腰を一体となって膨らませことも出来るようになって行きました。
自分自身の腹部と背部の間に境目は無く、誰かが決めた「名前」による身体の区分の意味を見直す必要性を感じ始めます。
そうした、いつからか定着してしまった固定観念が、身体の働きまで固めてしまうということに気付きます。

呼吸をしながら、身体全体を大きく反ったり丸めたりする中で、一つずつの背骨を動かせることを知ります。
そして、固まって動かせない場所があったり、先行して動いてしまう場所があったりして、背骨を全く自由に使えていないことを学びます。
体幹を前後に曲げるだけでなく、捻ったり傾けたりしたとき、骨盤の動きが順に背骨を通って伝達されていくことを体感します。
次第に、それが手にも伝わっていくことを感じられるようになり、肩に力を入れなくても、他の場所から腕を思った方向に動かせるということを体験します。
反対に、手の置き方によって、呼吸の通り方や、背骨や肋骨への力の伝わり方が変化することも学びます。

体幹を動かすとき、どの高さを中心に使っているかは個人差があり、それが普段の姿勢にも表れます。
私は、背中の中央あたりの動きが大きく、いま思えば猫背気味でしたが、そのことについて自覚できていませんでした。
呼吸によって背骨が伸びていく様子を感じられるようになった頃から、家族や友人に姿勢が良くなったと言ってもらえることが増えて行きました。
それから、肩が前に入って内に巻いていることや、頭が体幹に対して前に出ていることにも、目を向けるようになっていったと思います。

息を吸うと肺が膨らむため、吸息と共に肋骨は広がるものだと思い込んでいた私は、肋骨が締まる状態を体感させて頂いたとき、とても驚きました。
呼吸の入り方には左右差があったり、肋骨にも、動きにくい場所や、固まっている場所があることを感じるようになります。
どの高さにも呼吸の広がりや縮まりを伝える練習をする中で、それぞれの肋骨の感覚を高められるようになりました。
また、肋骨は、身体の前側では胸骨と、後側では脊椎と関節になっており、一言で「締める」と言っても、様々な表現があることに気付きます。

そうこうしている内に、肋骨の内側に意識が向いていなかったことに気付く機会を得ます。
肋骨を内面から締められるようになると、体幹の内部を包む膜を感じられ、背骨や胸骨を内側から動かすことも試みるようになります。
それから、自分自身のお腹や胸の内側がどのように動いているかを観察できるようになり、横隔膜や内臓に意識を向けるようになりました。
そして、呼吸に伴う締める・弛めるという働きが、他の場所と繋がって起こっていることを体感します。
その頃から、呼吸筋の働きが息を吸ったり吐いたりするだけではなく、様々な動作と関わっていることを、実感として得られるようになります。

ふとした切っ掛けで、胸へと吸い上げた空気が、体幹の中央を通っていく道があることを感じた瞬間から、呼吸が根本的に変わります。
それまで、吸息に伴う圧力が身体の外表に向かう力に変換され、息を吸い上げようとすると、途中で詰まってしまうことが多くありました。
肋骨の内部を上っていく全く別の経路があることを発見してから、表層の筋肉を脱力した状態で息を吸い上げることができ、呼吸の通り道に意識を向けられるようになりました。
息を吸ったり吐いたりしたときの意識の高まりが、どの経路を上がってきて、どの経路を下りていくかを観察し、それを色々と変えながら、遊ぶようになりました。

こうして思い返してみて、呼吸が変わって行くにつれて、自分自身の身体に多くの発見が生まれていることを実感しています。

観察記録01

今月で、このブログを始めてから、丸五年が経ちます。
読み返したときに、文章で記した意味合いよりも、書いてある内容の情景や印象や思考を思い起こせることの貴重さを感じます。
「その瞬間」にしか感じることが出来ない多くの経験をさせて頂いていることを、大きな財産として有り難く思っています。

屋根に降り積もった雪が滑り落ちてくるように、身体に関する観察を重ねる中で、自分自身の感覚や認識がガラリと変わる経験をします。
けれども、時間の経過と共に、その状態が当たり前になり、そうした出来事を忘れてしまっていることがあります。
身体の現状を見直したり、誰かにアドバイスをさせて頂く上で、その時点に戻ってみることの大切さを感じることがあります。
この機会に、身体観察の途中経過を、記録と記憶を元に、現在の視点も交えながら書き留めて行きたいと思っています。
とある男性の身体感覚が変わっていく様子を記した一例として、読んでくださった誰かにとって参考になる部分があれば幸いです。



医療系の学校を卒業したとき、身体について学んでいたつもりでしたが、骨盤を自分の意志で動かせることを知りませんでした。
知らなかったと言うより、動かしてみようと思ったことが無かったと言うほうが近いかも知れません。
腹式呼吸をしたり、動きを誘導して頂いたり、先生方の身体を触らせて頂いたりする内に、骨盤が動くものだというように認識が変化して行きます。
骨盤が前後に傾いたり、左右に回旋したりする動きを実感できるようになり、様々な姿勢で骨盤の運動を試すようになります。

それから、自分自身の骨盤が動かせる状態に無かったということに気付くことになります。
寝たり、座ったり、立ったりするとき、骨盤が最初から後方に傾いた位置で固まっていたことを認識して行きます。
最初は骨盤を真ん中に近付けて頂いた姿勢に違和感を感じますが、動かせる位置にあると、脚や腰の緊張も緩和されることを実感して来ます。

周りの力が抜けてくると、骨盤の動きに伴って、下肢や体幹も動いていることを感じるようになって行きます。
例えば、仰向けで膝を曲げた姿勢から、脚を上げようとすれば、太ももやお腹に力が入ります。
けれども、脚と骨盤の間の張りを保ったまま、下腹部に息を吸い込むと、骨盤の傾きと共に下肢が付いて浮き上がることを体験します。
その張りを弛めると、下肢を床に下ろすことも出来ます。
一見、同じような動きに見えても、筋肉を縮めることによって起こる運動とは、全く質の異なる動かし方があるということを知ります。

そして、骨盤を中心とした動きによって、様々な動作を行えることを学びます。
椅子に座っている姿勢から骨盤を傾けていくと、重心の比率が臀部よりも足のほうに高まり、立ち上がる働きが起こります。
歩いているときや、自転車に乗っているときにも、寝転がっているときでさえ、骨盤が動いていることを自覚するようになります。
そして、自分自身の身体の骨盤以外の部分にも、固まっている場所が沢山あることが分かって来ます。

骨盤を動かしているときに、腰を反ってしまったり脚を突っ張ってしまう癖があることに気付き、動作の起点に目を向けるようになります。
腰を中心に動作を行おうとすると、骨盤が動くよりも先に腰椎の間が詰まり、腰痛を引き起こす原因になることもあります。
条件を変えながら骨盤の動きを練習していく中で、下肢の内側や腹部の奥など、今まで意識が薄かった場所との繋がりを感じて行きます。

それから、骨盤は色々な方向に傾くだけでなく、呼吸と共に広がったり縮まったりもすることを感じるようになります。
そして、それが傾きや回旋とも連動しながら起こり、骨盤を動かす軸や幅が合い始めると、球の様にいずれの方向にも転がせることを体感します。
動かせる範囲が広がってくると、骨盤の上方のラインや、前方や後方の関節など、骨盤の形状や動作に対する認識が高まり、実際に行なっている動きから伝わる感覚と一致し始めます。
そして、その動きが、全身の様々な場所と連動して起こることを体感します。

身体の他の場所の感覚の変化と並行して、その後も骨盤に関する多くの発見があり、これからも探求は続きます。

丹常備

視覚や聴覚といった感覚は、目や耳に存在する受容器から、脳に入力されて処理されていると言われています。
自分自身の周りは、常に風景や音に囲まれていますが、それら全てを認識している訳ではありません。
必要であるかどうかが無意識の内に取捨選択されており、その選択によっては、大切な何かを逃してしまう可能性もあります。
また、何かを目で見ようとしたり、耳で聞こうとすると、目的に意識を向けられますが、それ以外の情報は入りにくくなります。
そうして考えてみると、感覚には外界からの情報を一方向に受け入れているだけではなく、能動的な働きと受動的な働きがあり、その起点を見直す必要性を感じることがあります。

以前から、丹田からの動きを身体に伝えることを意識することはありましたが、最近、丹田の感じ取る働きに注目しています。
丹田から見ようとすれば、球が回転して目がそちらを向き、丹田から聞こうとすれば、伸びて耳が立ち上がり、丹田から嗅ごうとすれば、上方に引き込まれて鼻から空気が入る感覚が得られます。
そうした感覚から起こる動きと、その時に高まっている経絡の関係を興味深く感じています。
手を動かす際も、丹田からの動きが順に伝わっていくというよりも、丹田で受け取ろうとする働きが手の動きとして表れると、動作が違ったものになることを感じています。

頭で考えて動くのではなく、丹田で感じて動けるようになると、感覚と動作という区別は無くなっていくのではないかと考えています。
そうした身体を創っていけるように、丹田に存在する自分を大切に育てて行きたいと思います。

元伊勢内宮

楽が基調

治療に臨む上で、「心身が楽な状態」になって頂くことを目指して施術を行ないますが、その言葉を聴いてイメージする内容は、人それぞれ違ったりします。
どこにも痛みが無い状態であるとか、悩むことなく過ごせる時間であるとか、力を抜いて寝転がった姿勢であるとか、色々な捉え方があるように思います。
私自身の認識が変化したこともあり、術者がそれをどのように考えているかによって、治療の意味が全く異なったものになることを感じています。

現代の生活では、身体の動きを最小限にして、思考によって目的を果たす時間が、長くなる傾向にあります。
自動車に乗れば、足の上げ下げによって遠くまで出掛けられ、パソコンを立ち上げれば、指先を動かすだけで情報のやり取りが出来ます。
しかし、じっとしていたり、何かにもたれ掛かったり、小さな動きを繰り返したりすることは、必ずしも身体にとって楽であるとは限りません。
身体の使い方の偏りは、気付かない間に蓄積されて、心身の不調の原因となってしまうことがあります。

動物には、疲れた身体を休めたいという欲求もあれば、身体を動かして活動したいという欲求もあります。
私は、動くときには思い切り動け、休むときにはしっかりと休め、自分自身の身体の働きを存分に活かせる状態が理想だと考えています。
スポーツのように大きく身体を動かす運動でなく、先に挙げたような日常の動作においても、少し視点や姿勢を変えるだけで、身体に与える影響は大きく変化します。
より楽に、より気持ち良く、身体を動かせるようになることは、それ自体が、自分自身の新しい可能性を発見する機会になり得ます。

身体が楽な状態を体験することは、思わずにこやかになってしまうほど嬉しいものです。
まして、痛みがあったり、固まって動かせなかったりと、何らかの不自由を感じている状況では尚更です。
そうした喜びを、診せて頂いた方に味わって頂けるよう、「楽」に過ごすための日々の積み重ねを大切にしていきたいと考えています。

箕面の滝

点構成

最近、頭部と前腕を着いた状態から、三点倒立をする練習をしていました。
三点のバランスが取れた位置で、地面へと重みが乗って行くと、自然に体幹や下肢が浮き上がっていく状態を体験しました。
それ以来、「立つ」ということに対するイメージが大きく変わりました。

立位で足趾を反らせて足背を張ると、足底の感覚が明確になっていく位置があります。
手に物を持った状態から、手背を張っていくと、手指の接触面が点に近付いていきます。
何かに接しているかどうかに関わらず、姿勢の変化に連れて、身体の内部の至る所で、感覚が強まったり弱まったりしています。
そうした意識の高まりと、力の抜ける姿勢との間には、関連があることを感じています。

それぞれの点は無関係に働く訳ではなく、一つの点が生まれると、次の点に向かう線を感じられます。
姿勢や息の吸い方を変えることで、それぞれの点を順に繋げたり、別の経路を探したりしています。

足部を曲げ伸ばししたり回旋すると、膝や股関節や坐骨の意識の強さが変わり、その向きによって下肢のどこを通るかが異なります。
また、上肢を絞っていくと、手首や肘や肩に点の意識が生まれ、それらが体幹にどのように繋がっていくかを観察しています。
坐位で骨盤を傾けていくと、坐骨の実感が高まってくる場所があり、下肢や上半身の移動に伴って、重心の掛かり方も変化します。

点の感覚は、固定された一点ではなく、バランスが変わると、位置や角度が変化します。
どこに基準を置くかによって動く箇所が変化し、一点が変わると、他の点も釣り合う位置へと座標を移します。

関節の大きさで支えるのでは無く、そこを通る経路の細さのバランスとして観ることで、体重や身体に掛かる負荷に対する受け止め方が、全く異なることを感じています。
それぞれの関節には無数の運動方向があり、行える動作の繊細さや受け取れる感覚の量は、そうした働きをどれだけ活かせるかによって変化することを感じています。
そして、鍼や指圧が点の意識で働きかけていることを、今更ながら、思い出したりしています。

城崎

大小帰納

以前、コンピューターでシミュレートされた宇宙の構造が、顕微鏡で見た脳神経回路の画像と、酷似していたという記事を読んだことがあります。
偶然にせよ必然にせよ、そうした一致が起こることを興味深く感じます。
全く別のものだという思い込みがあるから不思議に感じるだけで、一つの現象が様々な形で現れるというのは、自然なことなのかも知れません。

科学の進歩に伴って、今まで見ることが出来なかった極大や極小の世界が見えるようになっています。
医学にもそうした技術が活かされ、臓器から、組織、細胞、そしてDNAへと、より細かい部分の研究、解析が進められ、治療に役立てられています。
その一方で、現代医学が身体を細分化する方向に向かった結果として、一人の人間を全体として診る視点に欠けるということが指摘されています。

東洋医学の理論は、世の中の事象の見方を示す陰陽五行思想が基になっています。
陰陽説はあらゆる事物を陰と陽という二つの属性の相互関係として説明し、五行説は万物を木火土金水の五つの元素によって成っているとする考え方です。

その時代の自然科学の考え方が医学に取り入れられたというよりは、身体の観察を深める内に、自分自身の身体の中に自然そのものが見出されて行ったのではないかと想像しています。

姿勢や見る方向によって、身体にも光の当たる部分と当たりにくい部分があります。
活発に活動する時期と、落ち着いている時期が周期的に訪れ、時には騒動が起こることもあります。

身体を見渡してみれば、指のように細長い部位もあれば、腹部のようになだらかな場所もあります。
歯のように硬い組織もあれば、耳たぶのように柔らかい部分もあります。
体内には、肺を介して空気が吹き込み、消化器を通して養分が運ばれ、心臓や血管には血液が流れています。

それぞれ性質や働きは違っても、どこから辿っても途切れることなく繋がり、循環しています。
そして、それは、自分自身の身体だけで完結するものではなく、周りの自然の中で成立しています。

今後、どのように生活様式が変わったとしても、生物である以上は、健康をそこから切り離して考えることは出来ないと私は思っています。
「盗用」医学で満足してしまうことのないよう、自分自身の実感を大切にしながら、観察を積み重ねていきたいと思います。

フィレンツェ風景

後頭無形

最近、電車に乗っているときなどにも、つい顔をもごもごしてしまうことがあります。
頭部は複雑な構造をしている部分で、意識できていない場所が多くあるであろうことは分かっていましたが、今までずいぶん曖昧にしてしまっていたことを感じています。

指や舌で触れたときや、空気や飲食物が通るときに、感覚が薄い部分に意識を向けて、締めてみたり弛めてみたりしています。
そうすると、歯が直接に動く訳ではありませんが、口内の動きによって間接的に歯の意識が高まり、前に押し出したり手前に引いたりといった動きが、反る繋がりや丸まる繋がりと対応していることが感じられるようになりました。
また、奥歯から前歯へとそれぞれ順に意識を移しながら、それぞれ、どの経路で繋がっているかを観察しています。
上の歯と下の歯でも伝わり方が異なり、歯の使い方の偏りと、力の入りやすい場所には、関連があるのでは無いかと考えています。

鼻腔の奥に吸い込んだ空気を保息して動かしてみると、上方では百会、下方では会陰、前方では眼、後方では後頭部、側方では耳といったように様々な方向に伝えられ、非常に重要な場所を通っていることを感じます。
鼻腔の上部にあたる頭蓋底の位置が、横隔膜の浮きと関係し、平衡感覚においても大きな役割を果たしていることを感じています。
軸に対して頭蓋底が傾くと、呼吸を均等に吸い込めなくなって体幹の中心を通る感覚が失われ、頭部を支えるために様々な場所に力が入ってしまうことが実感できます。
頭蓋底を水平に浮かせられる位置では、頭部を軽く感じられ、頚の位置が決まり、体幹や四肢の力が抜きやすくなります。
また、頭部の上部を形成する頭蓋冠を内部から広げることで、いずれの方向にも身体を揺らせることを感じています。
身体のバランスにおいて、頭部の位置が如何に重要であるかを、身をもって感じています。

治療を行なう上でも、頭部の感覚を高めておくことの大切さが分かってきました。
吸気と共に「入れる」とき、脊柱の伸びが起こると、後頭部が包まれるような意識が生まれ、さらに繋がって行く方向を辿っていくと、それが耳の方へも広がってくることを感じられます。
その状態を保持して付いていくためには、目線なども含めた、頭部全体の一致した動きが重要であることを感じます。
そして、そうした感覚が途切れていないことが、意識や身体の動きにおける集中力が持続できているという一つの基準となっている気がしています。

頭部に限らず、まだ自覚できていない箇所が多くあり、それらは身体に対する認識を深めていくことでも受け止め方が変化することを感じています。
あらゆる感覚を活かしながら、自分自身の身体に対する意識を深く広げていきたいと考えています。

夕焼け

フード形勢

私達が生きていく上で欠かすことの出来ない活動の一つに、「摂食」があります。
呼吸や睡眠もそうですが、美味しいものを食べている瞬間というのも幸せなもので、毎日の食事の時間を楽しみにしています。

私が小学校の低学年の頃、家族で自宅近くの渓流へ魚釣りに出掛けたことがありました。
私も何匹か釣り上げ、釣った魚をバケツに入れて自宅まで連れて帰り、元気に泳いでいる様子を眺めていました。
その後、夕食時になり、釣ってきた魚を捌こうとする父を見て、止めてもらうよう泣いて頼んだことを覚えています。
それまでは、きっと「食」とは何かについて深く考えたことが無かったのだと思います。

スーパーマーケットに置かれた食材や、食卓に並んだ料理だけを見ていると、そうした実感が希薄になりがちです。
それは勿論、動物のみならず、植物においても同様です。
植物の場合は、葉で日光を浴び、呼吸を行ない、根から土中の水分や養分を吸って成長していきます。
元気に育つこともあれば病気になることもあり、成長する時期もあれば停滞する時期もあり、上へ伸びていく株もあれば横に広がっていく株もあります。
暑い地域や季節に育つ野菜には陰性の強いものが多く、寒い地域や季節に育つ野菜には陽性の強いものが多いとされています。
実であったり、種であったり、葉であったり、根であったりと、その植物の中で特にエネルギーの注がれている部分を、私達は食事を通して頂いています。

食物には鮮度や旬があることを考えると、含まれている栄養素や発生する熱量では表わすことの出来ない、そうした力が、「食」において重要な役割を果たしていると言えます。
「今の私」がそれらのエネルギーを得ることで生かされているという見方もありますが、それまでに摂食したもののエネルギーの集まりが「今の私」だと考えることも出来ます。
浴びている日光も、吸っている空気も、飲んでいる水も、薬などを服用した場合はそれも全て、ある期間は自分自身の一部になります。

したがって、健康について考える上で、摂取するものに気を配ることは欠かすことが出来ません。
毎回の食事を大切に想う気持ちを忘れないようにしながら、「食」を楽しんでいきたいと考えています。

梅干し

物トーン

中心塾や観照塾に参加させて頂く中で、様々な道具と触れ合う機会があり、道具から教わることの大切さを学んでいます。
一年間のカリキュラムを通して、同じ道具を用いても、毎年、感じ方が変化することを面白く思っています。

何か道具を持って動作を行なっていると、ふとした瞬間に、その道具に馴染んでもらえたように感じる機会があります。
ボールでは、自分自身の呼吸と共に大きさが変化しているように感じたとき、杖では、重みに伴う傾きに沿って風車のようにクルクルと回ってくれたとき、太極棒では、手の内の皮膚のズレが全身に伝わっていることに気付いたとき、模擬刀では、動きの中で中心で合う位置を感じられたとき、そうした喜びを覚えました。
そして、それが同時に、自分自身の身体の感覚が大きく変化するキッカケとも重なっていることを感じています。
そうした瞬間を積み重ねることで、より深く馴染んでいくことを楽しみにしながら、道具を用いて遊んでいます。

改めて自分自身の周りを見渡してみると、数え切れないほど多くの物に囲まれて生活をしていることに驚かされます。
全裸で宇宙空間を彷徨っているという特殊な状況を除けば、私たちは日常のあらゆる場面で、いつも何かに接していると言えます。
身に付けている服も、坐っている椅子も、足を着けている床も、手にしているマウスも、吸っている空気も含めると、そもそも何にも接していない箇所が存在しないとも考えられます。

意識が他に向いているときは忘れてしまいがちですが、大きさも重さも形も温度も質感も性質も異なるそれらの物から、常に膨大な量の情報を受け取っていることになります。
だとすれば、自分自身が気付いていない間に、周りのあらゆる物から、様々な影響を受けていると考えられます。
そして、それらの中にも、自分自身の心身の状態を観察していく上での、たくさんのヒントが提示されているような気がしています。
身の回りに存在する物との関わり合いを、もっと大切に感じていきたいと思っています。

モノトーン

習慣視

最近、日常のあらゆる活動に含まれる、無意識に行なっている行動に関心を持っています。
自分の意志で行なっているように思っている行動も、想像していた以上に、無意識の動作となってしまっている部分が多いことに驚かされます。
全ての動作を考えながら行なっていると、スムーズに事が運ばないので当然とも言えますが、そうしたところに自分自身の癖に気付くキッカケが潜んでいるような気がしています。
何のことやら伝わりそうも無いので、分かりやすそうな具体例をいくつか挙げてみたいと思います。

・歩いているときの速度や歩幅
 特に意識せずに歩いているとき、自然に足を運ぶ早さや位置というのはどういう基準で決まってくるのかを考えたりします。
 その時々の、気分や体調によっても変化しているように思います。

・視線を置いている所
 歩き慣れた道を歩いているときに何を見ているか、信号を確認したり、誰かとすれ違ったりする瞬間との違いを観察しています。
 目に映っていても意識に上らないことが有るということを実感しています。

・食事で食べたいと思う献立
 食材の買出しに行ったときでも、外食でメニューを見たときでも、何かを基にして選んでいます。
 高野豆腐を選ぶ日もあれば、ゴーヤチャンプルを選ぶ日もあります。

・湯船から上がるタイミング
 時間や体温を計っていなくても、何らかの頃合いに、頭のどこからか「よし」という掛け声が聞こえてきます。
 そうした声を、風呂の中に限らず、しばしば耳にしている気がします。

・風呂上りに身体をタオルで拭く方向
 誰かに身体の拭き方を教えてもらった記憶は有りませんが、知らない間に、拭く順番や方向に関して一定の法則を作っているように思います。
 上肢や下肢あるいは腹側や背側で向きが逆だったりすることを面白く思います。

・就寝時に布団に寝転がるときの姿勢
 仰向きで寝始めることも横向きで寝始めることもありますが、その時によって、しっくり来る向きが違ったりします。
 無意識の内に、力の抜けやすい姿勢を選んでいるのかも知れません。

意識した途端に無意識でなくなってしまうので観察するのが困難ですが、それぞれの根源の在り処がどこにあるのかを興味深く感じます。
そうした無意識の行動の出処は同一ではなく、繰り返しによって出来上がったものもあれば、性格や体質によって起こるものもあれば、もっと本能に近いところから生じるものも有るように思います。
そして、それらの行動を意識的に変えてみることで、その出処に対して変化を及ぼすことも出来るということを感じています。
そうした観察を通じて、自分自身を客観的に観る目を養っていきたいと思っています。

蜘蛛の巣

埋ライン

しばらく、身体感覚の変化を文章として纏めることに意識が向いていませんでしたが、ここ数ヶ月の間に多くの発見がありました。
体幹の締めを意識しながら呼吸をしていたときに、肋骨を内面から締められることに気付いた瞬間がありました。
いま思うと、それ以前は肋骨の外側の筋で締めており、締める圧力を高め続けると、呼吸が吸い上げにくくなったり、体幹が固まってしまったりしていたように思います。
体幹の他の部位にも意識を移してみると、骨盤や脊柱の内面にも同様の膜の存在を感じられました。
それらを体幹内部を覆う一つの膜として同時に締めるためには、骨盤の傾きや脊柱の角度や頭部の位置といった条件を整える必要があることが分かってきました。
その状態を目指すことによって、外側を緩めたまま内部を締めることが可能となり、力を抜いたまま動作を行なうことが体感しやすくなったように思います。

また、丹田を意識しながら動作を観察しているときに、骨盤の外周における意識の高まる点と、下肢の意識の高まる経路が繋がっていることを感じる機会がありました。
そして、そうした意識の高まっているラインの移ろいは、体幹や上肢においても連動して起こっていることを感じています。
かつての大阪マルビルの電光掲示板の文字のように、繋がりを隙間なく回転させることができると、身体の全外周に意識を行き届かせることも可能では無いかと想像しています。
まだ手指や足趾まで意識を広げることは困難ですが、そのラインを頭部から指先足先に至るまで同時に意識して動かせるようになれば、全身の一致した動きも感じられるのでは無いかと期待しています。

最近、東洋医学の古典に記載されている経絡図は、身体内面や外周に無数に存在する繋がりの中から、働きの際立った経路を選んで描かれているのではないかと考えるようになりました。
外に情報を求めなくても、自分自身の身体の中に、これほど様々な驚きが潜んでいることを、とても面白く感じています。
そうした発見によって、今まで感じられなかった感覚を得られたり、出来なかった動作を行えたりすることを嬉しく思います。
その上、そうして得られた事柄を、仕事にも活かせるのですから言うことはありません。
これからも、まだ気付けないでいる新しい発見と出会えることを楽しみにしていきたいと考えています。

そして、そうした喜びに気付く機会を与えてくださっている全ての皆様に、心より感謝を申し上げます。

クラゲ

深層回転

近頃、先月の中心塾芦屋土曜教室で、指先の感覚を高める準備の一環として教えて頂いた健身球をよく回しています。
健身球は、中国で生まれた健康用品で、手の上で転がすと小さな音が鳴り、デザインや素材も様々なものが作られています。
私は、開業祝いとしてZKさんに戴いた、金魚の絵が描かれた健身球を愛用させて頂いています。

健身球を回す練習をするときは、どういった段階を踏んで慣れない動作への順応が成されていくかを観察するようにしています。
練習を始めた頃は、手指の動きがぎこちなく、手の内からこぼれてしまい、落としまうことがよくありました。
動作に慣れてくると、徐々に余計な動きが省かれ、使えていなかった部分が動き始め、目で見ていなくても手部から伝わる感覚だけで回せるようになってきます。
五指それぞれの働きのバランスを調節したり、手部以外の部位にも目を向けてみる余裕が出てくると、苦手だった逆回しや、反対側の手での動作まで上達していることがあります。

最近は、手指を伸展した状態で、健身球同士がぶつからないように回すことを目標として練習しています。
手を握った状態だと、手指を屈曲して隣の指へと健身球を送り出すことに意識が集中していましたが、手を開いた状態で行なうと、手指の伸びと労宮を中心とするわずかな傾きによって球を転がせることを感じています。
ワイングラスを傾けて回すように、開いた手部で円形の器を形成して回すことが出来ると、その外縁を健身球が転がってくれることがあります。
上手く健身球が転がったときの軌跡を観察していると、母指球・小指球の内側から四指の近位指節関節を通る内回りと、母指球・小指球の上から四指の遠位指節関節を通る外回りの軌道があるようです。
手指の動きによってその軌道の上を転がすのではなく、球が転がっている軌道を感じることで手部を動かせるようになれば、球同士がぶつからずに回ってくれるのではないかと期待を抱きつつ練習しています。

インターネット上で健身球について紹介されているサイトや動画を観ていると、三つ以上の球を用いたり、上下方向に球を転がしたりといった、素晴らしいテクニックが公開されています。
ジャグラーになるための道のりは長く険しそうですが、本来の目的を見失わないように注意しながら、健身球で遊んでいたいと思っています。

健身球

 

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