問いストーリー

学校の試験では、一つの質問に対して一つの解答を選ぶという設問がよくあります。
正解か不正解かを、客観的に評価しやすいというのが、その理由である様に思います。
しかし、現実に生活をしていく上で、そうして答えを出す質問を受ける機会はほとんど無く、取り巻く周りの環境のあらゆる変化が、自身に対する問い掛けだと捉えることが出来ます。

場所や、季節や、年齢や、人間関係など、その時々の立場によって、投げ掛けられる問いは変化します。
問いの内容は、自分自身がそれをどう受け止めるかによっても変わります。
数秒後には忘れてしまっているような小さな問い掛けもあれば、その後の人生を変えるくらいの大きな問いが訪れることもあります。
そもそも、それを問いであるかどうかに気付くかどうかも自分次第で、知らない間に通り過ぎてしまうことも有り得ます。
そして、いずれかの選択をした後で、それがどちらの方向であったかを判断するのも自分自身です。
その基準となる自身を創っていくことの大切さを感じます。

それは、身体の状態においても同様である様に思います。
身体に不調を及ぼす原因と結果は一対一で無いことがほとんどですが、体調が良好なときのイメージが、自分自身を健康な状態に近付ける指針となります。
患者さんの訴えや現状を受け止めつつ、そこに留まらずに、良いイメージに近付けられたときに、施術も良い結果に繋がることを感じています。
自分自身の健やかな状態を追求していくことが、そうした感覚を高めていく上で如何に大切であるかを感じています。

私に問いを投げ掛けてくださる方々が、周りに居てくださることに対する感謝を、いつも忘れずにいたいと思っています。
そして、それを聞き漏らすことの無いよう、日々研鑽していきたいと思います。

ヴェネツィア

迷路迂回系

私は、だまし絵やトリックアートと言われる目の錯覚を利用した作品を観るのが好きです。
色や長さが実際と違って見えたり、平面に描かれた絵が立体に見えたり、視点を変えると全く違ったものに見えたり、現実には存在し得ない構造がありそうに見えたりすることを面白く思います。
ヒトの視覚は、目の前の世界をそのまま見ているのではなく、脳で補正された結果を「見た」と認識しているため、そうした錯視が起こるとされています。

私達は、社会生活を営む中で、誰かあるいは自らが作ったルールに囲まれて生活しており、気付かない内に、その枠の中で物事を解釈してしまっていることが有ります。
そうした錯覚に影響を受けながら、考え方や、心身の状態や、生活のリズムが形成されていくと考えることも出来ます。
自身にとってプラスになっているルールもあれば、マイナスになっているルールもあり、それらが知らない間に、自分自身の通り道を遮る壁となってしまっている場合があることを感じます。
そして、そのことに気付いた途端に、急に視界が開け、発想が広がり、選択肢が増えることを、たびたび体験します。

先日、日本で生まれ育ち、現在はカナダに移住して生活されている方と、お話しする機会がありました。
その方の、ご自身で好きなように自宅を改装され、家具もそれに合うように作られたという話を、感心しながら聴いていました。
それ自体は誰にでも出来ることではありませんが、いつの間にか、誰かに建ててもらった住居や、工場で作られた家具から選ぶことが当たり前になっていた自分自身に気付き、ハッとしました。
中高生の頃には、学校の授業で作った、机の上に置く本立てであったり、小物を整理する棚であったりを、自宅で使っていたことを思い出したりしました。
その方には、それが普通なのだと思いますが、私にとっては、ものの価値とは何であるかを改めて考え直す機会となり、少し視野が広がった気がしました。

そうやって、誰かと話したり、本を読んだり、映画を観たり、旅行に出掛けたりして、様々な価値観に触れる中で、自分自身の常識が当たり前とは限らないことを、しばしば経験します。
そして、その都度、自分自身の立っている位置を見直していくことの大切さを感じています。
錯覚したまま進んでいくのと、錯覚であることに気付いた上で選択するのとでは、たとえ同じ通り道を選んだとしても大きな違いがあるように思います。
行き止まりと思い込んで行き詰まることの無いように、錯覚を楽しみながら行き続けたいと思います。

安野光雅

本待つ店頭

このブログを見てくださっている皆様の中には、そろそろ古本屋巡りに繰り出そうと考えている方もおられると思いますので、私が古本屋に訪れる中で得た教訓を羅列しておきます。
皆様がより充実した古本ライフを送られることを、お祈りしております。

きちんと準備をする
たくさん購入したときは、丈夫なカバンがあると心強いですが、大き過ぎると却って邪魔になることもあります。
また、本を見るときに眼鏡が必要な場合は、忘れてしまうと致命的ですので、気を付けなければなりません。

店の特色を捉える
様々なジャンルの本を扱っている店もあれば、特定の専門書だけを集めている店もあります。
求めている本の種類や価格、その時の気分など、目的にあった店を選ぶことが大切です。

焦らずに本を探す
古本屋に辿り着いても、はやる気持ちを抑え、常に冷静さは失わないようにします。
せっかく良い本が棚に潜んでいても、慌てていると見逃してしまうことがあります。

ジャンル分けを信用しすぎない
多くの古本屋は、本をジャンル分けして並べてありますが、分類は必ずしも統一されたものではないので注意が必要です。
ずっと探していた医学書が、「オカルト」のコーナーで見つかったこともあります。

迷ったときは飛びつかない
値段は適当か、本当に必要であるか、家に同じ本が無かったかなど、落ち着いて吟味することも大切です。
同じ店内や別の店舗で、より条件の良い本が見つかることもあります。

必要とする本には飛びつく
上の項目と矛盾するようですが、絶対に欲しいと思った本はすぐに購入しておかないと、次に来たときには無くなっており、後悔することもあります。
私は、店の中を回りながら考えようと思っていたら、数分後には、すでに無かったという経験もあります。

本の中身を確認する
外見は綺麗に見えても、書き込みや折れ破れがある可能性もあるので、ある程度の確認は必要です。
反対に、著者のサインや珍しい栞や忘れ去られた押し花など、思わぬ贈り物が潜んでいる場合もあります。

無理して運ぼうとしない
本も積み重なると相当な重量になりますので、自宅までの帰路を考慮して、購入する量を考えることも必要です。
どうしても購入したい本が大量にあるときは、宅急便で送ってもらうことも視野に入れます。
苦労して自宅まで運んでも、身体を痛めてしまっては何もなりません。

感謝の気持ちを忘れない
底値では無かったとしても、定価よりは安くなっていることがほとんどです。
例え欲しかった本が見つからなくても、素敵な時間を提供してくださったことに感謝する心は忘れずにいたいものです。

ペンギン

真相真理

私は、自分自身が分からないことの答えを、色々と想像したりするのが好きです。
子供の頃は、推理小説の主人公の探偵が、依頼人の服装や動作から、どのような人物か言い当てる場面を憧れながら読んでいました。

日常の些細な出来事も、視点を変えると問い掛けとして捉えられ、それを解くためのヒントも提示されているといったことはよくあります。
例えば、現在の時刻が気になったとします。
時計を見るだけで答えは簡単に分かりますが、特に急いでもいないときは、少し遠回りをして手掛かりが無いか探してみたりします。
空の明るさ、太陽の高さ、鳥や虫の鳴き声、人の流れ、街灯の明かり、放送している番組など、案外、身の回りに多くのヒントがあったりします。
中には、お腹の減り具合であったり、眠気の起こるタイミングで正確な時刻が分かる方もおられるかも知れません。
予想と近かったときは何となく嬉しく感じたり、遠かったときは理由を想像して一人納得したりしています。

二十四時間、一緒にいる自分自身の身体についても、たくさんの分からないことがあります。
書籍やインターネットを使って調べられることもありますが、どこに載っているかさえ分からない疑問にぶつかることも多々あります。
そうした疑問は、すぐに解決できそうに無くても、あまり気にせず、頭の片隅に置いておくようにしています。
その内に、先生方の教えで手掛かりが見つかることもあれば、日常の何気ない動作や、ふと手にした書籍の一文にヒントを発見することもあります。
そうやって気付いた事柄のほうが、調べて簡単に解決できる疑問よりも、自分自身の感覚の変化に結び付いているように感じます。

世の中には有り余るほどの情報が溢れていますが、知識を得るためではなく、知識で考えないために学ぶということの大切さを感じています。
何重にも重なった先入観を順に取り去っていった後には、どんな世界が観えるか楽しみです。

足跡

意図電話

私は、日曜日の午前中に自宅に居るときは、NHKで放送されている将棋トーナメントを観ることがあります。
対局前の、「日曜日のひとときを、最後までごゆっくりお楽しみください」という解説者の台詞を聞いているときが、安らぎを感じる瞬間の一つだったりします。

以前は、ゲームとしての局面の移り変わりを楽しんで観ていましたが、最近は、その裏に流れている対局者同士の対話に面白味を感じるようになってきました。
最初は、お互いに同じ力を持った駒が同じように配置されていますが、そこから変化する全ての手には、指し手の意志が反映されていることを感じます。
また、それを受け取る側が、どれだけ深く先の変化が読めているか、対局の流れを掴めているかによって、同じ一手でも見え方が全く異なっていることを面白く感じます。
「よく手が見える」というのは、「どれだけ相手の『声』が聴こえているか」ということと一致しているのでは無いかと想像したりします。
ハイレベルな対局ほど、一手一手の指し手が、はっきりとした会話になっていることを面白く思います。
私は全く将棋が強くないので、聴き取れないやり取りも多くありますが、解説者の説明やその後の展開によって、そうした会話の内容を間接的に知ることが出来ます。
本来、その境地に達している者どうしにしか聴こえないであろう対話を垣間見れることを、とても楽しく思います。

私は中高生の頃、国語のテストにおける読解問題には、『なぜ解答が存在するのか』を不思議に思っていた時期があります。
小説や論文を読んだあとに、「作者の考えを述べなさい」や「空欄に入る語句を答えなさい」といった設問がなされているテストをよく見かけますが、自分自身はいったい何を根拠にそうした問題を解いているのかを疑問に感じていました。
「作者の考え」は色々な受け止めかたが可能な場合もあり、「入る語句」は必ずしも一つの言葉とは限りませんが、「なぜその設問が作成されたのか」という問題を製作した人の意図を汲むことで、そのテストにおける正解が導き出されるのだと考えるようになっていました。

糸の太さや長さは変化しても、そういった目に見えないやり取りは、日常のあらゆるコミュニケーションにおいて見受けられるように思います。
同じ表現であったとしても、状況やタイミングや発信者によって、伝わる内容が多様に変化することを興味深く感じます。
そして、表面上に表れている対話から、常にその背後に存在している意思を受け取れるようにしておくことの大切さを実感しています。
これまで感じられていなかった『声』もしっかりと聴き取れるように、もっと自分自身を磨いていきたいと考えています。

笹舟

花見好き

今朝、外を歩いているときに、自宅の近所の桜の花が咲き始めているのを見かけました。
私は、「花見に行こう」と決めて桜を見に行くことはあまりありませんが、満開の桜の淡くぼんやりと広がる姿は好きで、立ち止まって眺めることはあります。

桜の花びらの色は、和色では桜色や薄桜と名付けられているようですが、桃色にさらに適度の白色を加えたような独特の色合いに美しさを感じます。
そういった、それぞれの色によって、観たときに受け取る印象が変わるということを、不思議に思うことがあります。
私は絵画では風景画が好きで、たまに展覧会にも観に行きますが、描かれている題材よりも、全体の色使いから受ける印象に惹かれることが多いように感じます。
迷わずに何色か言い切れるようなはっきりした色も目が覚めるようで良いですが、ずっと観ていても疲れないような淡い色合いが、私の性には合っているような気がします。

いくつもの山が重なった風景を眺めているときに、遠くに行くに従って、自然に山の色が淡くなっていくグラデーションが生まれることを不思議に思ったことがあります。
考えてみれば、山と空も、昼と夜も、冬と春も、白米と玄米も、ミとファも、無味無臭と五里霧中も、自分と外界も、区分しているのは頭の中だけで、その間には無数の段階が存在していると言えます。
そうした明確に区別できない曖昧な部分を感じておくことを、大切にしていきたいと思っています。

これから、「花見好き」の方にとっては楽しみな季節ですが、花粉症の方にとってはつらい「鼻水期」でもあります。
お出掛けの際は予防をお忘れなさいませんよう。

<参考ページ> 日本の伝統色 和色大辞典

桜

知る苦労度

私の実家は山あいの地域にあるため、冬になると雪がよく降り、多いときには一晩の間に数十センチメートルの雪が積もることもあります。
私は、小学生の頃はスクールバスで通学しており、自宅からバス停までの1キロメートルほどの坂道を歩いて通っていました。
普段は妹と二人で通学していましたが、朝起きて雪がたくさん積もっている日には、父や母が先導してくれて、バス停まで送ってもらっていたことを思い出します。
辺り一面が雪景色であると、道路とそれ以外の境界も曖昧になるため、道を踏み外したり、溝に嵌ったりする危険性がありますが、先につけてもらった足跡を踏んで歩くことで、足の着く底の深さや状態が分かり、安全な道筋を辿ることが出来ます。
歩幅や速度を合わせて歩いてくれている両親の後を、一歩先の足跡と一致するように意識しながら足を運んでいたことを覚えています。

ヒトの歴史が何も無い真っ白な状態から始まったとすると、現在、形成されているあらゆる文化が、数え切れないほどの先人の足跡の集積だと考えられます。
言葉や作品あるいは技や芸と言った形で残された足跡に触れることで、その道を通った人たちの考え方や生き方に思いを馳せることが出来ます。
新しい道を開拓し、何か一つのことを成し遂げるに至るまでの経緯を知ると、その重みには感じ入るものがあります。
そして、自己を省みたときに、自分自身に最も足りていないものは何かを考えることがあります。

全く違う分野においても、それらの道の辿り着いた先には共通する部分があるということを興味深く感じます。
そうした内容を参考にしながら、自分自身が進もうとしている方向を予測したり選択したりできることを、とても有り難く感じています。
誰も踏んだことのない雪の下にも道を見つけながら歩いていけるように、先人の足跡から「歩き方」を学んでいきたいと思います。

足跡

一語一絵

私は、絵画を観るのが好きで、外出したときには美術館に立ち寄ることがよくあります。
観に行きたいと思っていた美術展を目的として出掛けることもありますが、たまたま通りかかった全く知らない画家や多様な作品を集めた企画展に入ってみることもあります。
何気なく入った小さな展覧会で、好きな画家や作品が見つかることもあれば、たくさんの作品が展示されていても、印象に残る作品に出会えないこともあります。
いずれにしても、絵画という目に見える形を通して、日常とは異なる世界観に触れられることは楽しいものです。

似たような風景や静物をモチーフにしていたとしても、それぞれの画家によって全く違った表現になり、観る側が受ける印象も大きく異なります。
同じ画家の絵画だけを集めた美術展であっても、全て同じような印象を受けることは無く、それぞれの作品によって感じ方が変わってきます。
一つの展覧会の中で気に入る絵画は、二周目で気付くということはほとんど無く、多くの場合が初見で目が惹かれ、最後まで回ってから再び観に戻りたくなります。
そうした作品に触れたときに、観る者に与える印象の強さの違いというのは、どこから生じているのか考えることがあります。

同じものを見ていても受け止め方が違い、同じものを表わそうとしても表現方法が違うことを考えると、誰もが異なるフィルターを通して外界と関わり合っていると言えます。
だとすれば、絵画という形として現れているものは、お互いが共有している世界を、いったん作品を描いた画家の持つフィルターを通すことで切り取られた現実の一部だと考えることができます。
そうして生み出された作品を通してフィルターを反対側から観たときに、その向こうに存在する作品に込められた情熱や心情といった作者の内面が伝わり、それが自分自身に通じるところがあったときに感動を与えてもらえるのではないかと思います。

面白そうな本を読んだり、気分に合う音楽を聴いたり、興味のある演芸を観に行ったりするのも、自分とは異なるフィルターを通して、その向こう側に触れたいという感情から起こっているような気がします。
一つ一つの動作や言葉にも、各々の持つフィルターを通した表現が少なからず含まれていると考えると、どのような形であれ、人と関わること全てに当てはまるのかも知れません。
様々な方々と交流させて頂く中で、自分自身の持つフィルターの厚みや色合いの変化を感じながら、物事に向き合っていきたいと思っています。

シャボン玉

嗜好作語

ひょっとすると、注意深い方はすでに気付いておられるかも知れませんが、私は言葉遊びが好きです。
無限とも言える単語の組み合わせの中から、思いも寄らなかった『言葉』が見つかった時は、何とも言えず嬉しいものです。
音か文字のいずれかが近ければ、思い浮かぶいくつもの候補の中から、作り手が想定したであろう別の意図を想起できるということを面白く思います。

日本語に限らず、一つの言語が広く使われるようになるまでには、長い年月が経過する中で、多くの『言葉』が生まれては消え、ルールが作り変えられてきたのでしょう。
ともすれば、世の中に存在する全ての物には「名前」が付いており、身の回りで起きた出来事において『言葉』で表現できないことは無いようにさえ考えてしまいがちです。
しかし、よく考えてみると、現在使われている『言葉』で言い表せない物や出来事においては、その存在自体が一般的に認識されていないと捉えるほうが自然であるとも言えます。
もしかすると、実際には、未だに『言葉』が追いついていない事物のほうが沢山あるのかも知れません。

私が高校生の頃、どの単元を教わっていたときであったかは忘れましたが、数学も言語の一種であるように感じた瞬間に、数学に対する捉えかたが大きく変わったことを覚えています。
例えば、一次元から二次元に数字の世界を広げようとするとき、「2乗すると1になる数字」や「2乗すると4になる数字」の解ならそれまでに存在した『言葉』で表現できますが、「2乗すると3になる数字」を表そうとすれば、新たな表現方法を考え出す必要性が生じます。
よって、√3という数字は、最初からそれ自体が意味を持って存在していたわけでは無く、新しく生まれた概念を表現するために作られた『言葉』であると解釈することも出来ます。
三角関数や微分積分においても、教科書上ではあたかも最初からそういう世界が存在するかのように記述されていますが、そうした『言葉』が作られてきた背景を想像しながら学ぶことは楽しいものでした。

数学が言語だとすると、それを基礎として成立している科学を一種の言語だと捉えることも出来ます。
だとすれば、新しい『言葉』が産み出され、古い『言葉』が忘れ去られ、その言語が作り変えられていく過程を「科学の進歩」と呼ぶのかも知れません。
そして、言語である以上はきっと、そのルールの中においても、切り貼りしたり、並べ替えたり、ひっくり返したりして遊ぶだけの余地が残されているのでしょう。
身の回りに溢れる『言葉』を取り除いた後も、なおも残っているであろう「何か」を見つめられる目を養っていきたいと考えています。

石垣

悟時間数

私が不思議だと感じる事柄の一つに、「時間」があります。
時計の針を見ていると、時間は常に同じ早さで流れているように見えますが、条件によっては一定とは限らないことが知られています。
私がそのことを初めて知ったのは、高校生の頃にアインシュタインの『相対性理論』に関する書籍を読んだときで、当時はとても驚きました。
『相対性理論』によると、時間の流れは観測者によって異なり、移動する速度が光速に近付くほど時間が進むのが遅くなるとされています。
ただし、現代の最新のジェット機でも光速にはとても及ばないため、現実的に人間の生活に及ぼす影響は、ほぼゼロであるということになっています。

しかし、日常生活の中でも、時間の流れる早さが一定でないように感じることは、しばしば経験します。
何かに集中しているとあっという間に時間が過ぎたように感じることもあれば、うっかり二度寝してしまって飛び起きるとほとんど時間が経っていないということもあります。
年齢を重ねるほど、年月が過ぎるのを早く感じるようになるといった話もよく耳にします。
時間の経過をどう感じるかは脳で処理をした情報の量によるという考え方もありますが、「時間」そのものが人間の作り出した概念に過ぎず、「時間」は個人によって異なる相対的な感覚であると空想することも出来ます。
そのように仮定するなら、赤ん坊から成長していく中で、カレンダーや時計を眺めている内に、それが無くても一年や一日の周期を体験する内に、あるいは母胎で成長する中で「時感」という感覚が自然に身に付いていくと考えられます。
農作や狩猟を挙げるまでも無く、誰しも一人では生きていくことが出来ず、生活していく上では必ず周りの環境に合わせる必要があり、「時感」を持つことは生存のために不可欠な能力であると言えます。
もしも、昼も夜も無く、夏も冬も無く、成長することも老いることも無く、生きていくための活動が何一つ必要とされない世界があったとすれば、そこでは「時間」が存在しないのと同じことかも知れません。

時代や地域が変わるとより顕著になるような気がしますが、誰もが同じ「時感」を持っているとは考えにくいように感じることがあります。
街ですれ違う人々を観察していると、忙しく仕事をしていても時間がゆっくり流れているような人を見かけることもあれば、自由に遊んでいても時間に追われているような人を見かけることもあります。
出来ることなら、ゆったりと流れる時間の中で活動したり休息したりしながら、一日一日を過ごしていきたいものです。

砂時計

語録祭

寒天に関する情報を今か今かと待ち望む皆様の心の叫びが聴こえてくるようなので、久しぶりに寒天について触れておきたいと思います。
しかし、相変わらず、私は寒天に関する目新しい情報を何一つ持ち合わせておりませんので、今回は、「寒天」というキーワードが含まれた有名な言葉をいくつか紹介してみたいと思います。

寒天とは、80パーセントの食物繊維と、20パーセントの水である。

トーマス・カンテン


欲望に囚われることなく、冷静に寒天を分析し続けたからこそ生まれた言葉だと思います。
あまりにも簡潔すぎて物足り無さすら感じます。

ひとり道に迷ったときは、木に登って遠くを眺めてみれば良い。
近くに木が無ければ、河へと飛び込んでみれば良い。
近くに河が無ければ、寒天を冷やして食べてみれば良い。

スコブル・カンテンスキー


言わんとすることは雰囲気で判りますが、どこか釈然としない感情が残ります。
しかし、作者が寒天を好きであることは伝わってきます。

人生とは、寒天で満たされたプールのようなものだ。
泳ごうとすればまとわりつき、乗ろうとすれば沈み込んでしまう。
しかし、掻き分けて進むことはできる。

カンタル・テンクリッソ


人生を突き進んでいこうとする強い意志を感じられます。
しかし、具体的に何を意味しているのかを考え出すと、まるで寒天で作られた受話器のように真意が掴めません。

最後に、日本の文学作品の中から、とある言葉を引用して締めくくりたいと思います。

智が働けば案が浮く。情に任せれば勘冴える。寒天変えれば名言だ。とかくこの世はネタだらけ。

天草作造



ジャングルジム

真剣蝉

私の自宅では夏になると、毎朝、セミの鳴く声がよく聞こえてきます。
子供の頃は、夏休みには虫捕り網を持って公園に出掛け、虫カゴが一杯になるまでセミを捕っていました。
鳴き声を追っていくとすぐに見つかるので虫捕りにはもってこいですが、あの小さな体から周りに響き渡るほどの大きな声が出るのは不思議なことです。
セミの腹部には人間の声帯と同様の膜があり、そこを震わせて起こる音を、腹部にある袋で増幅することによって大きな鳴き声を実現しているそうです。
セミが鳴く最大の目的はメスを呼び寄せるためであり、その目的を果たすためにオスの身体は鳴き声を出すことに特化した構造になったようです。

現在、日本に生息しているセミには様々な種類があり、鳴き方にもそれぞれ特徴があります。
特にツクツクボウシの鳴き声は個性的で、あのような独特の旋律を持つようになったことを面白く思います。
日中によく鳴いているアブラゼミやクマゼミの鳴き声を聴くと、暑く日差しの強い夏らしさを感じさせられます。
反対に、夕暮れに鳴くことの多いヒグラシの声は、涼しげで、どことなく哀愁を帯びているような気がします。
そうした印象を持つ理由は、聴く側がセミの鳴き声と環境を一致させたイメージを抱いていくためなのか、それともセミの鳴き声が環境に合わせて変化してきたためなのか、私には分かりません。
皿うどんは硬い部分と柔らかい部分のどちらが美味しいかという議論と同様に、それらを切り離して考えることが不毛なのかも知れません。

セミが幼虫として地下生活する期間は数年から十数年と長く、成虫となり地上に出てからは数週間で死んでしまいます。
外で活動できる期間が短いことを可哀想だと捉える考え方もありますが、案外、セミにとっては地面の下でゆっくりと樹液を吸っている生活も心地良いのかも知れません。
地中で充分に元気を蓄えたセミたちが、きっと来年の夏も賑やかに鳴いていることでしょう。

蝉

星想見

私の実家は、周りに街明かりが存在せず、標高が高いこともあり、夜になると星がよく見えました。
子供の頃は、星座盤を持って夜空を見上げて、それがどのような星座であるのか調べていたことを覚えています。
夏になると「ペルセウス座流星群」が訪れるため、流れ星を見れる確率が高まり、お盆の直前あたりには流星に遭遇するピークを迎えます。
その時期には一時間に十個以上の流星が出現するとも言われていますが、私は首が痛くなるほど上を見上げていても、今までに三回くらいしか見たことがありません。

スペースシャトルに乗って地球の写真を撮ってくることなど想像も出来なかった時代において、夜空に浮かぶ星の存在は、今よりももっと神秘的に感じられたのでしょう。
古来より、星は、暦や方角や運勢を知るための基準として重要視されていました。
地球からは見かけ上、太陽が天球上を西から東に向かって、一年間で一周しているように見え、その通り道を黄道と言います。
その黄道が通っている十二星座の位置が、暦や季節を知るために重要な役割を果たしていました。
また、北極星は地球上のどこから見ても位置が変わらないため、北がどちらかを確かめる根拠として知られていました。
星座の名前はギリシャ神話に基づいて付けられており、現在でも誕生日に対応させた星占いなどでよく用いられています。
しかし、自分の星座は知っていても、実際の夜空において、それがどの星を指しているのか分かる方は少ないのではないかと思います。

都会に住んでいると夜中でも地上が暗闇になることが少ないため、分かりにくいですが、明るい星であればある程度は見えています。
日常生活に追われていると、ついそれが全てであるように考えてしまっていることがありますが、星を見上げていると宇宙における自分の存在の小ささを再認識することができるような気がします。
身の回りの明るさに囚われず、遠くにある小さな光にも目を向けられるような心のゆとりを持っていたいものです。

流れ星

句あれば落あり

私は、以前から落語を聴くのが好きです。
漫才やコントを観るのも好きですが、情景を積み上げて大きな笑いに結びつけるという点では、落語に勝る芸は無いように思います。
たった一人で、動作や道具が限られた中で、多くの登場人物や状況を表現し笑いを起こす技術にはいつも感心させられます。

私が初めて聴いた落語は、桂米朝の『地獄八景亡者戯』でした。
小学生の頃にカセットテープを買ってもらい、風邪で学校を休まなければならないときなどに、よく聴いていました。
『地獄八景亡者戯』では、主人公が様々な人々と出会いながら地獄を旅する様子を、面白おかしく描いています。
数ある上方落語の演目の中でも特に長い噺ですが、密度の濃い独創的な内容に途中で退屈することは無く、また、繰り返し聴いても飽きることはありませんでした。
音声だけで映像はありませんでしたが、声や音だけでも、まるで噺家の表情や動きが見えるようで、多くの登場人物のやり取りを楽しみながら聴いていました。
私は特に、「三途の川」を渡る際に、船頭の鬼が船の乗り賃を決めるというくだりが好きでした。
算数の九九をもじった駄洒落がふんだんに盛り込まれており、私が言葉遊びの面白さを自覚したのはその頃からだったように思います。

その後も、寄席に行ったり、CDやDVDを借りてきて落語を視聴したりすることはよくあります。
落語を聴くと、舞台となる時代は違っても変わらず身の回りに居そうな人柄、起こりそうな状況を、面白く描くことの上手さに感心します。
『質屋蔵』という演目では、仕事先の蔵から一合の酒を盗み飲みしている内に、繰り返し少量を運ぶのも一度に大量を運ぶのも、結果は変わらないだろうということで、酒樽ごと大八車で運び出してしまうという男性が登場します。
現実に同様の事件が起こると大きな問題となるでしょうが、その奔放な性格が噺の中ではとても面白く、また、憎めない人物として描かれています。
酒樽を盗まれた旦那も、その男性の行為を「何をすんねんな」と困りこそすれ、怒ったり訴えたりするという発想に至ることは無く、そうした人情味に溢れた落語の世界観がとても好きです。

多くの落語家が研鑽を重ねて作り上げられてきた落語を楽しめるということは、幸せなことだと思います。
生活する中で五×三や四×九じりもありますが、それを四×六時中、九×二するのではなく、笑うことで八×三していけたら良いですね。

東海道五十三次

桃現況

今年も、桃の季節がやってきました。
私は、よく夕食後にデザートを食べますが、果物の中では特に桃が好きです。
冷蔵庫に数時間入れておいて、手で皮をむいて、そのまま食べるのが、最も美味しいように思います。
すぐにそれと分かる独特の香りも、柔らかい部分の淡い甘味も、種の周りの硬い部分の酸味も、なんとも言えず良いものです。
缶詰やゼリーやジュースなど桃を使った食品は色々ありますが、やはりそのまま食べるのが格別です。

桃の原産地である中国においては、昔から邪気を祓い、不老長寿の力を与える果実として親しまれていました。
漢方薬の材料としても桃の種や花が使われており、服用すると血行を改善する作用があり、特に婦人科疾患に効果があるとされています。
日本には縄文時代から伝わっていたとされ、食用として栽培され始めたのは明治時代以降であるようです。
子供の頃は誰しも、桃の中で育ったという桃太郎をうらやましく思ったものですが、桃は食べ物としてだけではなく、現在も多くの物語や風習の中に残っています。

そうして人々に元気を与えてきた桃の実も、それ自体は果皮が薄く、果肉が柔らかいため、外からの圧力にとても弱いものです。
少しぶつかっただけでも傷んでしまうため、丁寧に手で収穫され、大切に各地まで出荷され、慎重に店頭に並べられています。
白い保護材に包まれ、スーパーマーケットの売り場に並べられている様子は、まるでベビー服を着た赤ん坊のようです。

天候不順のため不作が懸念されていましたが、今年の桃の収穫量は平年並みのようです。
桃は、果物の中でも特に旬が短く、高価なので、年内にあと何回食べられるか分かりませんが、それも私にとっては季節のありがたみを感じられるキッカケの一つになっています。

桃

 

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