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立考補瀉

最近、私は『精神』と『肉体』の繋がりについて考えることがあります。
合気道の稽古などを通して、身体の使い方を教えて頂く中で、自分自身の身体の各部位に対する「意識」の分布には、大きなバラつきがあることを感じています。
「意識」の強い部位は、普段からそこを主力に身体を動かしているため負担が掛かってしまい、張りや凝りが生まれたり、その状態を続けると痛みとして感じたりすることがあります。
その反対に、「意識」が弱く、普段ほとんど使えていない部位は、積極的に「意識」を向けてやらないと働いていないことがよくあります。
中には全く「意識」出来ていない部位もあり、何らかのキッカケで「意識」が通ると、その後は他の部位と同様に動かすことが出来るようになることを体験してきました。

今まで出来なかった動きを行なえるようになったり、感じられなかった感覚が生じたりする経験は、何事においても有り得ますが、その都度、新たに何らかの組織が形成されていくとは考えられないため、そうした現象は『肉体』ではなく『精神』の変化の結果として起こると言えます。
そして、それは脳を拠り所とする『精神』のみを指すのではなく、新しい「意識」が生まれた部位に存在する『精神』が関係しているような気がします。
極端な例として、事故や病気が原因で四肢のいずれかを失ってしまった場合に起こる「幻肢痛」が考えられます。
実際には存在しないはずの四肢に対して痛みを感じるという症状を指し、末梢から脳に向かって痛みを伝える神経が存在しなければ解剖的な繋がりは見出せないため、現代医学では原因不明であるとされています。
しかし、『精神』と『肉体』が一致することで身体が形作られているとするなら、そうした現象は、それほど不可解なことではないのかも知れません。

そうした仮定を東洋医学の視点から見ると、「意識」が全身の隅々まで過不足無く行き渡っている状態が、滞りなく気が巡っている状態と言えるのかも知れません。
そして、「意識が不足している部位」が「虚」で、「意識が過剰になっている部位」が「実」だと捉えることも出来るように思います。
「部位」という表現は、特定の経穴という局所としても、いずれかの絡脈といった流れとしても、あるいは身体全体の体調としても当てはまるように思います。
だとすれば、受け手と『精神』を同調させることによって、「意識が不足している部位」に「意識」を足す治療が補法となり、「意識が過剰になっている部位」から「意識」を抜く治療が瀉法ということになります。
「虚中の実」や「実中の虚」と言われるように、「意識が不足している部位」の中にも「実」が存在したり、「意識が過剰になっている部位」の中にも「虚」が存在したりするため、単純に二通りに分けることは出来ないのでしょう。
『肉体』に現れている症状だけではなく、受け手の『精神』に存在する「意識」に目を向けながら、治療に取り組んでいきたいと考えています。

イチョウ

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