手掌鑑定

「手」という全身の中でみると小さな場所に、様々な目的を達成するための多くの要素が詰まっていることを学び、面白く思っています。
手部が、手根骨や中手骨といった多くの骨で構成されていることは知っていましたが、それらの間の関節を意識して動かせることを初めて実感したときは驚きました。
そして、体幹から起こる力を指先へと伝えるために、そうした場所の使い方が重要であることを感じています。

なぜ手根骨がこのような配置になっているのか考えたこともありませんでしたが、色々と動かしてみると、個々の関節の利く位置が、五指それぞれと対応し、尺骨に繋がる角度とも一致していることが分かってきました。
意識する指や向かう方向が変わると、前腕の向きや肘の位置や肩の角度が、それと関連して変化することを実感しています。
尺骨と橈骨の間の締めが体幹や下肢の締めとも連動し、手掌側の利きによって内に集まる繋がりが生まれ、手背側の利きによって外に向かう繋がりが生まれることを感じています。

自分自身の手の平を見ていると、過去には無かった手掌の中央を縦に走る皺が、いつの間にか出来ていることに気付く機会がありました。
きっと、それまでは母指球と小指球を寄せるような動きをすることが少なかったため、その位置に皺が出来る条件を持っていなかったのだと思います。
それ以外の場面でも、手の形や動きが変わったことを感じることがしばしばあります。
私は手相の見方について、きちんと勉強したことが無いので、そうした変化によって自分自身の運命がどのように変わったのかはよく分かりません。
ただ、今まで動かせなかった部位を動かせるようになったり、出来なかった動作を出来るようになったことを、喜ばしく思っています。

手の皺の一本一本にも、その方のそれまでの人生が表れているとすれば、そこから将来を予測するということも、必ずしも不思議でないような気もします。
手相を見る行為に限らず、あらゆる視診が、その方の「現在」から「過去」を知り「未来」を予測するということになるのかも知れません。
そうして診えた「相」を少しでも良い方向に変えられるように、治療に馴染む手を創り続けていきたいと思います。

フキ

押し伸び

以前、太極棒を持ちながら呼吸をする稽古をしていたときに、棒と手の内のズレが全身に伝わっていることを感じる機会がありました。
一方へのズレによって脊柱の反る動きが生まれ、反対方向へのズレによって丸まる動きが起こることを面白く思い、ずらす方向によってどういった違いが生まれるのかを試しながら、色々と遊んでいました。
そして、そうした変化は、手に限らず身体のどの部位においても同じように起こることを学びました。
足底と床の間など、あらゆる接点においてその働きを感じられる方向にずらし続けることよって、固まらずに動作を行なえることを感じています。

その後、施術においても、患者さんの皮膚に対して、自分自身の手の内がずれたときに同じ現象が生じることを体感しました。
手技で触れる度にのけ反っていると不審に思われかねないので、どうしたものかと思案していたところ、先に自分自身の中心を保っておくことが肝心であることが分かってきました。
それによって頚部の位置を保つことができ、自分自身の中枢に向かって通っていくのと逆の経路を辿って、患者さんの身体まで繋げていけることを感じています。
表裏における引きと攻めを切り替えることで、頚部が前方と後方のどちらに引かれるかを観察し、繋がる方向に入れて待ちながら、呼吸や緊張の緩和に伴って伸びていく様子を感じることを大切にして施術に取り組んでいます。

今までは、全身が皮膚で覆われているため、内部とのズレが順に伝わることで、そうした状態が起こるようなイメージを持っていました。
けれども、最近、必ずしも直接に触れていなくても同じような繋がりが生まれることを体感し、そうした捉えかたを見直す必要性を感じています。
自分自身の身体のいずれかの部位に、指先を体表から浮かせた状態で当て、触れているときとの繋がり方の差異を比べながら、触れる側の手の意識の在りかたが大きく関わっていることを実感しています。
そうした観察を突き詰めていくことで、意識を通すと言うことを明確に行なえるようになるのでは無いかと密かに期待しています。
心身の内面や表面やより外など、様々な面に目を向けられるように意識しながら、治療に取り組んでいきたいと考えています。

傘

身サイン

東洋医学の古典には、「治未病(未だ病まざるを治す)」という言葉が記載されています。
まだ症状として現れていない段階で病気を予防するといった意味で、東洋医学の治療に対する基本的な考え方になっています。
最近、「治未病」というのは、必ずしも特別な知識や技術を必要とする治療とは限らず、誰もが日常において行なっている行為と共通している部分が多いことを感じています。
例えば、夜中にふと目が覚めてみると、掛け布団が身体からずり落ちて、背中の一部分が冷えてしまっているとします。
そのときに、直ぐに布団をかぶったり、背中を暖めたりと、冷えに対する対処をしていれば、翌朝は何事もなく起床して活動することができます。
もし、対応を怠ったり、冷えに気付かなかったり、あるいは目覚めることも無いほど疲れていて、そのままの状態が続いてしまうと体調を崩す原因になりかねません。

そうした病気や怪我を起こす前に身体から投げ掛けられている徴候を感じ取り、的確に対処することが、如何に大切かを感じています。
袋入りのお菓子を開けて、いくつも口に運んでいると、何となく喉の奥に違和感を感じ始めることがあります。
目的地まで歩いている最中に、左右の足部の向いている方向が異なっているように感じ始めることがあります。
そのようなときに、頭で考えた都合ではなく、身体からの警告を真摯に受け止めることで、不調に陥る前に予防することができます。
今までそういった徴候を見逃していたであろう自分自身の経験を反省すると共に、まだ私が気付けていない身体の変化が多く存在するのだろうと考えています。
そして、そうした経験が、再び同じ状況になったときに予防をしたり、誰かの未病を治療したりする上で役立つということも感じています。
東洋医学の古典も、古人の健康に関する失敗談や成功例の集積という視点から読んでみると、より身近なアドバイスとして捉えられることを感じています。

「健康」について考えていく上で、自分自身や患者さんの身体から投げ掛けられている些細な徴候も見逃さないように、もっと気を配っていきたいと思っています。
そして、私が自分自身の身体を観察することの大切さに気付かせて頂いたのと同様に、患者さんが自ら体調の変化に気付き、病気や怪我を予防して頂けることを目標として治療に取り組んでいきたいと考えています。

タンポポ

色彩差異

私達の身体には、様々な種類の刺激に対する受容器が備わっており、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった感覚を使い分けながら、日常生活を送っています。
通常は、目によって物を見て、耳によって音を聴き、鼻によって匂いを嗅ぎ、舌によって味を感じることで、外界からの情報を得ることが一般的です。
しかし、中には、音を聴いたときに色が見えたり、文字を読んだときに匂いを感じたりといったように、特定の刺激に対して反応する感覚の他に、異なる感覚が生じる現象が起こりうることが知られており、そうした感覚は共感覚と呼ばれています。
共感覚の生じる理由としては、脳の発達段階で本来なされるはずの感覚の分化が充分に果たされなかったためであるとされ、そうした現象は限られた人々にのみ生じるとされてます。

けれども、共感覚のように異なる感覚がはっきりと結び付くことは無くても、誰かに対して「寒色系の服が似合う」とか「いつもより暗い感じに見える」といった発言は、日常においてもよく耳にします。
対象となる人物と、特定の色を結び付ける具体的な根拠を示すことは困難ですが、そうした印象が他人の感覚と合致することも、しばしば有ります。
もしかすると、誰もが無意識の内に、その方に対して抱いたイメージと、色や音や匂いといった異なる感覚に対して持っているイメージを繋ぎ合わせて、その方の全体的な印象として受け取めているのかも知れません。
そのように仮定すると、共感覚は一部の人にのみ備わった能力ではなく、誰もが感じているけれど気付いていない感覚だと考えることもできます。
身体を各部位によって使い分けてしまうのと同様に、成長する過程で、感覚も「言葉」によって分類してしまっているために、五感それぞれを区別して捉えてしまい、そうした現象を不思議だと感じているだけなのかも知れません。

そして、何となく感じるそうした印象と、実際のその方の心身の状態というのは、少なからず因果関係があるのでは無いかと感じています。
東洋医学の診断においては、望診や聞診として、患者さんの顔色や皮膚の色合い、声の音階、発せられる匂い等を、診断の材料として重要視しています。
古典においては、同じ黒色であっても、カラスの羽のような黒色と、煤のような黒色では、光沢や色艶が異なり、両者の間では予後に大きな違いが生じることが記載されています。
それらを診る上で、黒色を五行色体表の臓腑に当てはめるよりも、その方を診たときに感じた色の明暗や濃淡や寒暖から受ける印象のほうが重要なのでは無いかと考えるようになりました。
そして、それらを何らかの手技を用いて、意識的に変化できるように手伝うことが治療に繋がるのでは無いかと感じています。
何となく感じる根拠の無い感覚を大切にしながら、治療に臨んでいきたいと考えています。

梅

立考補瀉

最近、私は『精神』と『肉体』の繋がりについて考えることがあります。
合気道の稽古などを通して、身体の使い方を教えて頂く中で、自分自身の身体の各部位に対する「意識」の分布には、大きなバラつきがあることを感じています。
「意識」の強い部位は、普段からそこを主力に身体を動かしているため負担が掛かってしまい、張りや凝りが生まれたり、その状態を続けると痛みとして感じたりすることがあります。
その反対に、「意識」が弱く、普段ほとんど使えていない部位は、積極的に「意識」を向けてやらないと働いていないことがよくあります。
中には全く「意識」出来ていない部位もあり、何らかのキッカケで「意識」が通ると、その後は他の部位と同様に動かすことが出来るようになることを体験してきました。

今まで出来なかった動きを行なえるようになったり、感じられなかった感覚が生じたりする経験は、何事においても有り得ますが、その都度、新たに何らかの組織が形成されていくとは考えられないため、そうした現象は『肉体』ではなく『精神』の変化の結果として起こると言えます。
そして、それは脳を拠り所とする『精神』のみを指すのではなく、新しい「意識」が生まれた部位に存在する『精神』が関係しているような気がします。
極端な例として、事故や病気が原因で四肢のいずれかを失ってしまった場合に起こる「幻肢痛」が考えられます。
実際には存在しないはずの四肢に対して痛みを感じるという症状を指し、末梢から脳に向かって痛みを伝える神経が存在しなければ解剖的な繋がりは見出せないため、現代医学では原因不明であるとされています。
しかし、『精神』と『肉体』が一致することで身体が形作られているとするなら、そうした現象は、それほど不可解なことではないのかも知れません。

そうした仮定を東洋医学の視点から見ると、「意識」が全身の隅々まで過不足無く行き渡っている状態が、滞りなく気が巡っている状態と言えるのかも知れません。
そして、「意識が不足している部位」が「虚」で、「意識が過剰になっている部位」が「実」だと捉えることも出来るように思います。
「部位」という表現は、特定の経穴という局所としても、いずれかの絡脈といった流れとしても、あるいは身体全体の体調としても当てはまるように思います。
だとすれば、受け手と『精神』を同調させることによって、「意識が不足している部位」に「意識」を足す治療が補法となり、「意識が過剰になっている部位」から「意識」を抜く治療が瀉法ということになります。
「虚中の実」や「実中の虚」と言われるように、「意識が不足している部位」の中にも「実」が存在したり、「意識が過剰になっている部位」の中にも「虚」が存在したりするため、単純に二通りに分けることは出来ないのでしょう。
『肉体』に現れている症状だけではなく、受け手の『精神』に存在する「意識」に目を向けながら、治療に取り組んでいきたいと考えています。

イチョウ

自由肩

最近、以前と比べて、上肢の動きに対する捉えかたが随分と変わったことを感じています。
以前は呼吸によって上肢を浮かせているつもりでも、多少なりとも肩部に力が入ってしまっていました。
そのため、純粋に体幹への意識のみで上肢を上げられることを初めて体感させて頂いたときは、とても感動しました。
それを実現するためには、吸息と共に、体幹の骨格系を締めておくことが不可欠であることを感じています。
吸気によって胸腔や腹腔の内圧が高まると、肋骨や骨盤の締めによって側方に広がることの出来ない圧力が上下方向に圧縮され、それが脊柱の伸びや肋骨の挙上を起こし、結果として上肢が持ち上がるのではないかと想像しています。
そして、胸椎、肋骨、胸骨で構成される胸郭や、鎖骨、肩甲骨の動きが、骨盤の動きと連動してくると、挙上のみならず、上肢の様々な動作が肩部の力を使うことなく実現できることも知りました。
それだけでは目的を果たすための充分な働きを得られないことが多いので、体幹の動きから生まれる力を増強するために、意識との一致や手関節の角度や手指の向きを突き詰めていくことの必要性が分かってきました。
歩行時には自然に上肢を交互に振っていますが、上肢が上がっていくタイミングで、意識する距離を変えたり、手関節を背屈させたり、特定の手指を伸展したりすることで、振り幅が大きく変わってくることを感じています。

ヒトの二足歩行という特徴を改めて考えてみて、下肢に安定性が求められたとすれば、上肢は自由度を高めた結果として生まれた構造と言えると思います。
上肢を自由に使うためには、最も繊細な動作が実現できる手部を、如何にして働きやすい位置まで移動させられるかが重要になってくるように思います。
三次元的に手部の位置を決定していくためには、肩部や肘部に力を入れて固めてしまうのではなく、肩関節と肘関節という軸の異なる二つの中継点を自在に動かせる状態を確保しておくことが不可欠だと感じています。
そして、肩部や肘部の力を抜くには、下肢による土台と、骨盤と胸郭および上肢帯の動きを一致させるための体幹の軸が大切であることを感じています。

最近は、肩関節周囲の治療においても、動作時に痛みの出ている部位の症状を改善するというよりは、痛みが出ない上肢の動きを実現することを目標として治療させて頂くようにしています。
肩部に痛みを訴えて来院される患者さんの上肢の動きを診せて頂くと、上腕を体幹に引き付けてしまったり、肩甲骨を固定してしまっていたり、円背の姿勢になってしまっていたりと、肩部の力が抜けない状態で上肢を上げようとしておられる方が多いことを感じています。
そうした部位から調整させて頂くことで、症状を増悪させてきた要因の逆の経過を辿ることが出来るため、局所の疼痛も改善していくことを感じています。
患者さんに少しでも肩の力を抜いて生活を送って頂けるように、より工夫しながら治療に取り組んでいきたいと考えています。

栗

太平腰

私が、身体の使い方に関して以前と比べて変化したと感じる事柄の一つに、意識して骨盤を動かせるようになったということがあります。
それまでは、体幹の動作のほとんどを脊椎のみで行ない、骨盤から下方がほとんど動かせていなかったように思います。
解剖学や運動学に関する書籍で筋肉の項目を見ても、随意的に骨盤を動かす作用については、ほとんど記載されていません。
おそらく、骨盤は基本肢位のまま固定されているという前提で、骨盤に起始を持つ筋肉が収縮したときには、下肢あるいは体幹が動くと捉えられているのでしょう。
私も「骨盤を動かす」ということは考えたことが無かったので、そうした内容を見ても、特に疑問に思っていませんでした。
骨盤に限らず、現実における身体の動きを、深く考えようとしていなかったと言ったほうが正しいのかも知れません。

しかし、実際には、下肢あるいは体幹が固定された状態で、骨盤に起始を持つ筋肉の収縮によって骨盤が引き寄せられるという作用が多く存在することが分かってきました。
その結果、骨盤には前後屈、回旋、側屈といった運動が起こり、それによって、身体の様々な動きが実現できるということを知りました。
また、骨盤の運動を行なっていたときに、腹筋を緩めた状態で骨盤を充分に前傾させると、臍の下方を仙骨側から引かれるような感覚が起こることを感じる機会もありました。
それ以来、これを「自称丹田」と名付け、どうすれば運動を続けたり姿勢を変えたりしても途切れないように継続できるかを試してみるようにしています。
その意識を保つことで、体幹の軸を保ったまま運動が続けられるため、安定した動作や負担の少ない動作を実現するために重要であるように感じています。
しかし、体幹の動かし方によって容易にその状態が抜けてしまうので、足関節や膝間節を柔らかく使うことや、股関節を自在に動かせるようになることの必要性を感じています。

骨盤の動きによる運動は、日常動作においても、役立つ場面が沢山あるように思います。
例えば、立位で足元の荷物を持ち上げるという動作においても、腰椎の屈曲伸展によって行なうよりも、下肢という支えのある骨盤の運動によって体幹を前後屈するほうが合理的であるように感じるようになりました。
たとえ軽い荷物であっても、腰部の筋力のみで上半身の体重を重力に逆らって持ち上げようとすれば、腰椎を伸展させる筋肉や、骨盤と脊椎を繋ぐ筋肉に大きな負担が掛かっているように思います。
しかし、それ以外に同じ目的を果たす動作が存在することを知らなければ、知らず知らずの内に痛みを作り出す動作を繰り返してしまうことになります。
私が、多くの方々に「当たり前」が当たり前でないことに気付くキッカケを頂いているように、私も、誰かが良い方向に変化していけるように手助けをしていきたいと思っています。

アマガエル

休憩膝

最近、私は、その時々の姿勢において、身体のどこに力が入っているかを意識するようにしています。
私の場合は、立位の姿勢では下肢後面に力が入り、膝関節が突っ張ってしまっていることがよくあります。
膝関節に力が入っていると、下肢の筋肉に疲労が溜まりやすかったり、関節に負担が掛かってしまったり、運動を行なう上では柔軟な動きが妨げられたり、反応がワンテンポ遅れてしまうといったデメリットが考えられます。
そのため、余分な力を抜こうと膝関節を軽く曲げたりしてみることはありましたが、完全に脱力してしまうと身体を支えられないために、無意識に他の部位に力が入ってしまい、なかなか上手くいきませんでした。

しかし、勉強会に参加する中で、骨盤を前傾させ、鼠径部の溝が深くなるような股関節の動きを教えて頂いていたときに、知らない間に膝関節の力も抜けていることを感じる機会がありました。
それ以来、膝関節に力が入ってしまっていると感じたときは、股関節と足関節の角度を調節し、なおかつ上半身の体重が足関節の付近に落ちるような姿勢をとるように意識しています。
そうした経験から、膝関節は、体重を支える働きよりも、股関節と足関節を繋ぎ、両間のバランスを取る働きのほうが大きいのではないかと考えるようになりました。

現在、日本では膝関節の痛みで悩んでいる方が多く、六十代になると、およそ半数以上の方が膝関節痛を経験するともいわれています。
膝関節に痛みが起こりやすい理由として、膝関節は構造上、体重によって大きな負荷が掛かってしまうことが原因の一つであるといわれています。
そのため、変形性膝関節症の予防としては、体重を支えるための下肢の筋力トレーニングや、負荷を減らすためのダイエットを勧められることが一般的です。
しかし、身体のバランスが崩れているために、本来、膝関節に掛かるであろう体重による負荷以上の負担が生じてしまうことも、膝関節に痛みが起こりやすい原因として考えられるように思います。

実際に、膝関節の痛みで来院される患者さんの中には、患側の股関節が外旋していたり、足関節の可動域が減少している方も多くおられます。
そうした理由で、膝関節の力が抜ける姿勢に至ることができず、周辺の筋肉を緊張させてしまったり、関節の変形が進行してしまったりして、痛みが生じている方もおられるように思います。
膝関節に痛みを抱えておられる患者さんを治療させて頂く上で、そうした内容も含めて治療やアドバイスをしていきたいと思っています。

海鳥

創造肢位

最近、職場や往診での施術において、「動かして行なう治療」が増えてきました。
以前は、施術前後での症状の診断や、治療の締めに軽い運動を行なっていても、治療中は、特別な状態で無ければ腹臥位と背臥位のままで施術を行なうことが中心でした。

それは、今まで私が学んできた治療法は一定の姿勢で行なうことが多かったという理由もありますが、私自身に、患者さんはじっとしていられたほうが楽であるという思い込みがあったためだと思います。
しかし、中心塾や健康維持互助会といった勉強会を通じて治療を体験させて頂く中で、緊張が緩むように動かしてもらうことの気持ち良さを知り、それによって離れた部位での症状が緩解するといったことも実感してきました。
また、長時間、同じ姿勢でじっとしていると、肢位によっては却って固まってしまうということも目の当たりにしてきました。

そのため、近頃は、四肢を動かしたり、体幹を揺らしたり、治療中にあえて何度も体位を変えて頂いたりして、その時々での動きの変化を重視するようにしています。
また、同じ体位であっても、四肢の角度や、枕の位置や高さによって、表面に現れる経絡に大きな違いがあるため、形に拘らずにそれらを工夫していくことの必要性を感じています。
身体を動かすことを意識すると、上肢や下肢の末梢にも目が行きやすくなり、それによって、主訴である体幹の症状が改善するといったことも、頻繁に経験するようになりました。

動きの観察は、診断にも大きな役割を果たしていることが分かり、身体の診かたも以前と比べて変化したように思います。
原穴や五兪穴といった東洋医学における重要な経穴は、四肢の関節の近辺に多く存在しますが、その重要性を体感を持って知ることができました。
また、十二経脈は流注としての繋がりだけでなく、手の少陰と足の少陰といった三陰三陽での対応もみると、身体の使い方と一致する部分が多く、よく考えられていることに改めて感心しています。
患者さんに日常における動作をより楽に行なって頂けるよう、もっと工夫して治療に取り組んでいきたいと思います。

 

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