埋ライン

しばらく、身体感覚の変化を文章として纏めることに意識が向いていませんでしたが、ここ数ヶ月の間に多くの発見がありました。
体幹の締めを意識しながら呼吸をしていたときに、肋骨を内面から締められることに気付いた瞬間がありました。
いま思うと、それ以前は肋骨の外側の筋で締めており、締める圧力を高め続けると、呼吸が吸い上げにくくなったり、体幹が固まってしまったりしていたように思います。
体幹の他の部位にも意識を移してみると、骨盤や脊柱の内面にも同様の膜の存在を感じられました。
それらを体幹内部を覆う一つの膜として同時に締めるためには、骨盤の傾きや脊柱の角度や頭部の位置といった条件を整える必要があることが分かってきました。
その状態を目指すことによって、外側を緩めたまま内部を締めることが可能となり、力を抜いたまま動作を行なうことが体感しやすくなったように思います。

また、丹田を意識しながら動作を観察しているときに、骨盤の外周における意識の高まる点と、下肢の意識の高まる経路が繋がっていることを感じる機会がありました。
そして、そうした意識の高まっているラインの移ろいは、体幹や上肢においても連動して起こっていることを感じています。
かつての大阪マルビルの電光掲示板の文字のように、繋がりを隙間なく回転させることができると、身体の全外周に意識を行き届かせることも可能では無いかと想像しています。
まだ手指や足趾まで意識を広げることは困難ですが、そのラインを頭部から指先足先に至るまで同時に意識して動かせるようになれば、全身の一致した動きも感じられるのでは無いかと期待しています。

最近、東洋医学の古典に記載されている経絡図は、身体内面や外周に無数に存在する繋がりの中から、働きの際立った経路を選んで描かれているのではないかと考えるようになりました。
外に情報を求めなくても、自分自身の身体の中に、これほど様々な驚きが潜んでいることを、とても面白く感じています。
そうした発見によって、今まで感じられなかった感覚を得られたり、出来なかった動作を行えたりすることを嬉しく思います。
その上、そうして得られた事柄を、仕事にも活かせるのですから言うことはありません。
これからも、まだ気付けないでいる新しい発見と出会えることを楽しみにしていきたいと考えています。

そして、そうした喜びに気付く機会を与えてくださっている全ての皆様に、心より感謝を申し上げます。

クラゲ

深層回転

近頃、先月の中心塾芦屋土曜教室で、指先の感覚を高める準備の一環として教えて頂いた健身球をよく回しています。
健身球は、中国で生まれた健康用品で、手の上で転がすと小さな音が鳴り、デザインや素材も様々なものが作られています。
私は、開業祝いとしてZKさんに戴いた、金魚の絵が描かれた健身球を愛用させて頂いています。

健身球を回す練習をするときは、どういった段階を踏んで慣れない動作への順応が成されていくかを観察するようにしています。
練習を始めた頃は、手指の動きがぎこちなく、手の内からこぼれてしまい、落としまうことがよくありました。
動作に慣れてくると、徐々に余計な動きが省かれ、使えていなかった部分が動き始め、目で見ていなくても手部から伝わる感覚だけで回せるようになってきます。
五指それぞれの働きのバランスを調節したり、手部以外の部位にも目を向けてみる余裕が出てくると、苦手だった逆回しや、反対側の手での動作まで上達していることがあります。

最近は、手指を伸展した状態で、健身球同士がぶつからないように回すことを目標として練習しています。
手を握った状態だと、手指を屈曲して隣の指へと健身球を送り出すことに意識が集中していましたが、手を開いた状態で行なうと、手指の伸びと労宮を中心とするわずかな傾きによって球を転がせることを感じています。
ワイングラスを傾けて回すように、開いた手部で円形の器を形成して回すことが出来ると、その外縁を健身球が転がってくれることがあります。
上手く健身球が転がったときの軌跡を観察していると、母指球・小指球の内側から四指の近位指節関節を通る内回りと、母指球・小指球の上から四指の遠位指節関節を通る外回りの軌道があるようです。
手指の動きによってその軌道の上を転がすのではなく、球が転がっている軌道を感じることで手部を動かせるようになれば、球同士がぶつからずに回ってくれるのではないかと期待を抱きつつ練習しています。

インターネット上で健身球について紹介されているサイトや動画を観ていると、三つ以上の球を用いたり、上下方向に球を転がしたりといった、素晴らしいテクニックが公開されています。
ジャグラーになるための道のりは長く険しそうですが、本来の目的を見失わないように注意しながら、健身球で遊んでいたいと思っています。

健身球

湯に恩

この冬は、特に寒い日が続き、身体を冷やしてしまうことで、体調を崩されている方も多いようです。
私は特に冷え性ということでもありませんが、冬の間は、就寝時に足元が冷えないように湯たんぽを使用しています。
同様の目的で、電気や電子レンジを利用した暖房器具も用いられていますが、私が使っているのは、蓋を開けてお湯を注ぐオーソドックスなタイプの湯たんぽです。
様々な理由があるのでしょうが、実際にお湯を注いで用いる湯たんぽが最も心地良く、朝起きて布団から出た後も、身体が暖まっていることを感じられます。
今回は、誰もが共感して頂けるであろう、湯たんぽに関する「あるあるネタ」を書き並べておきたいと思います。

寒くなりかける時期は、湯たんぽを入れると布団が湿気そうに思い、使うべきか迷う。
しかし、一旦使い始めると、その湿度が良いという結論に達し、毎晩お湯を沸かし出す。
ガスコンロの前で待ち構えていると、やかんのお湯がなかなか沸騰しない。
全て注いだのに湯たんぽが満タンにならなかったときは、残念に思う。
やかんからお湯を注ぐときに、注ぎ口からお湯がこぼれて火傷しそうになる。
蓋がしっかり閉まっていなくて、そこから漏れたお湯で火傷しそうになる。
袋からはみ出している部分に、足が密着して火傷しそうになる。
湯たんぽを動かしたときのちゃぷちゃぷという音が、子守唄のように聴こえる。
寝る前の熱い状態も良いが、朝方の生暖かい感じも何とも言えず心地良い。
それゆえ、布団から出るという一日を始める上で不可欠な行動を起こすために決心を伴う。
ぬるくなったお湯は、次の日に食器を洗ったりするために使う。
寝ている間に湯たんぽを布団の外へ蹴飛ばしてしまい、朝方にがっかりする。
それを防ぐために、掛け布団の端を折り込むと、仰向けで寝たときに足の向きを制限されて辛い。
短時間の仮眠を取るときでさえ、せっせとお湯を沸かしてしまう。
外出するときも、湯たんぽを履いて出掛けたくなる。
常に湯たんぽに囲まれて暮らしたくなる。
人類の最大の発明品は、火薬でも羅針盤でも活版印刷でもなく、湯たんぽではないかと考え始める。
しかし、無いなら無いで、問題なく寝れる。
冬を過ぎると、使い道が全く無い。
夏になると、思い浮かべることさえ無い。
そして、次の冬が来たときに、押入れの奥にしまってあることを思い出して嬉しくなる。

温泉

肢長損

今まで私は、自分自身の身体に対する感覚においても運動においても、頭部の下に体幹があり、そこから上肢や下肢が伸びているというイメージが強くありました。
しかし、最近、体幹や四肢といった身体の部位の分類に対する認識を見直す必要性を感じています。

私が何らかの運動を行なう際には、筋の収縮で遠位の骨を引っ張ることによって目的を果たそうとしてしまうためか、身体の末端から先導して動かすことが多くあります。
そうした運動では、筋の収縮している部位に対する意識が強くなり、結果として関節を固めてしまったり、繋がりが途切れてしまったりすることが分かってきました。
しかし、一部の筋の収縮ではなく、一本のラインの伸展を意識することによって起こる運動もあることを知り、そうすると、上肢や下肢の運動を体幹と切り離して考えることは困難であると考えるようになりました。
下肢後面の伸展に意識を置きながら骨盤を前方に傾ける運動をしていると、骨盤の上縁である腸骨稜のラインを明確に感じる機会がありました。
その結果、歩行時における下肢の運動も、それまで私が認識していたよりも上方から起こっているということを感じられ、その動きが体幹をどのように伝わって上肢の運動に結びついているのかを観察しやすくなりました。

それと同様に、上肢に対する認識も、より体幹に近付けていくことの必要性を感じています。
たとえ腕を目一杯伸ばしているつもりでも、そもそもの伸ばそうとしている対象が適切ではないために、自らの意識によって制限を加えてしまうといったことも起こりうるということが分かってきました。
また、手部から先行して動かしたときには、その状態を腕全体で支えなければならず、肩部の力を抜くことが困難になってしまうことがよくあります。
しかし、鎖骨や肩甲骨といった上肢帯を体幹から動かせるようになると、肩部や肘部を固めないために自由度が増し、負荷を体幹で受けられるため安定度も高まることが分かってきました。
それを様々な動作の中で自然に使えるようになるためには、上肢を胸部や背部を含めて捉え直していくことが必要なのではないかと考えています。

上肢や下肢に対する認識を拡大することによって、体幹の運動との関連性が明確になり、全身の繋がりが観察しやすくなるように感じています。
便宜上つけられた区分に囚われることで、知らない間に自分自身の身体の可能性を狭めてしまうことのないように、身体の使い方を工夫していきたいと考えています。

雪だるま

鼻ロード

私は今まで、呼吸時の身体の繋がりに関して、四肢の変化に気を取られ、体幹への観察が不充分であることを感じていました。
そのため、最近は、呼吸をしたときに体幹に起こっている変化に注目して観察するように心掛けています。

呼吸に伴う体幹の繋がりは、吸気時に上り呼気時に下るという、実際に肺に出入りする空気の方向とは反対向きに流れていくように感じられます。
鼻部を始めとして気道を通る空気の通りやすさを調節するためには、脊柱の中でも特に頚部の角度が重要であることを感じています。
頚部を前屈すると、吸気に伴う空気が鼻腔の下側を通り、背部の意識が高まりますが、鼻腔の後方で当たり、呼気時に腹部を下りていく流れが感じにくくなります。
反対に、頚部を後屈すると、空気は鼻腔の上側を通り、腹部の意識が強くなりますが、喉元で詰まり、背部を下る流れを感じにくくなります。
その間のどこかにある鼻腔全体を空気が通る位置に頚部を保つことで、最も呼吸がしやすくなり、身体の繋がりを感じやすくなるように思います。
私はどちらかと言えば頚部を後屈して顎を上げてしまいがちなので、腹側への意識が強くなり、途中で呼吸が詰まってしまうことがあるのではないかと考えています。

そして、体幹と四肢の繋がりを感じるためにも、骨盤や肋骨といった体幹の骨格の締めが大切であることが分かってきました。
吸気時のみならず、呼気時にも完全に脱力せずに締めを保つことによって、呼気時における身体の繋がりが感じやすくなることを実感しています。
その上で、いずれかの繋がりに意識を置いて呼吸することで、動かそうとする意志の伴わない動作が生まれてくることを感じています。
太陽経から少陰経に伝わるルートでは、踵が手前に引き寄せられ、骨盤が前傾し、空気が下肢後面から背部を上り、頭部を通って腹部を下り、下肢内側を通っていくように感じられます。
意識や姿勢を変えることで、その反対の経路や異なるルートを通していくことも可能となり、合気道の稽古を通じて教わっている様々な動作にも結び付いていくのではないかと考えています。

自分自身の身体の繋がりをイメージすることで、以前は経絡図として覚えていた経絡に対する捉えかたが、随分と変わったことを感じています。
まだ明確な動作や感覚に結び付けるためには程遠い薄さですが、それらを治療や自分自身の健康を省みる上で生かせるように工夫していきたいと思っています。

洞穴

浮ルート

身体の使い方を教えて頂く中で、条件が整えば、あらゆる動作は個別の関節運動の複合ではなく、全身の繋がりをもって行なえることが分かってきました。
それによって、一部の筋力のみによって行なう動作と比べて楽に目的を果たせたり、大きな力が発揮できることを経験してきました。
しかし、身体のどこかに余計な力が入った途端に、そうした繋がりとは無関係な動きになってしまうため、力を抜くことと動作を行なうことの両立の難しさを感じています。

全身の繋がりを感じる上で、力が抜けた状態での運動の代表としても、呼吸が重要であることが分かってきました。
そのため、最近は、深く呼吸をしたときに、身体の各部位にどのような変化が起きているかを観察するようにしています。
立位での「自然体」において、吸気時には、腹部に吸気が入りきる前に下肢内側に張りが生まれ、腹部から胸部への吸い上げと共に、上肢尺側が前上方に伸びていくように感じられます。
一方、呼息時においては、上肢尺側を辿り、背部から下肢後面を通って元の状態に戻っていくように感じられます。
これを東洋医学の経絡に置き換えると、吸気時には空気が腎経を上がり、そこから心経を通って指先まで至っていると言えます。
そして、呼息に切り替わるのと同時に陽経へと移り、小腸経を通って背部に回り、膀胱経を下って足部まで達するように感じられます。

通る経路はいつも同じとは限らず、「自然体」から、上肢を外旋すると心経よりも肺経が伸びやすくなったり、下肢を内旋すると膀胱経よりも胆経を通りやすくなるように感じられます。
姿勢や体調の変化に伴って、呼吸時に感じられる経路が変わったり、あるいは全く感じられなかったりすることもあります。
そもそもの「自然体」がいつでも誰でも同じとは限らないため、常に一定の経路を通ると決めてしまうほうが不自然なのかも知れません。
しかし、呼吸時に通る経路を意識的に変えてみることで、力の抜けた状態に近付けることも出来るということを感じています。
そして、そうした検証を繰り返していくことが、静止した姿勢に限らず、経絡を使い分けながら様々な動作を行なえるようになるために不可欠なのではないかと予想しています。

生まれてから何回の呼吸をしてきたか計算するのも面倒なほどですが、吸息と呼息の繰り返しの中で身体にどのような変化が起こっているかということ自体を考えたことが無かったので、意識しなければ気付かないことが如何に多いかを感じています。
いつも「自然体」で物事に取り組んでいけるよう、もっと自分自身の身体を観察していきたいと思っています。

飛行機雲

冬季備

今年の秋は暖かい日が続いていましたが、このところ冷たい風が吹くようになり、冬が近付いていることを感じられます。
急に気温が下がる時期には、身体を冷やしてしまうために、体調を崩してしまうことが多くあります。

寒くなると、体温を維持するために大量のエネルギーを必要とするので、食料が不足しがちな冬季では冬眠をする動物もいます。
冬眠を始める前には、食物を多く摂取し、脂肪を蓄えておくことによって、冬眠している間に必要なエネルギーを確保します。
また、寒さによって体温を奪われないようにするために、秋になると毛が抜け変わり、長く、密度の高い冬毛に生え変わる動物もいます。
冬眠中は、心拍数や体温が大きく低下し、代謝は極限まで抑えられ、仮死状態になります。
そうした状態におかれても、なおも生命を維持できる機構については、未だによく分かっていない部分も多くあるようです。

幸か不幸かヒトは冬眠をする必要がありませんが、冬に備えてエネルギーを蓄えるという生理現象は、ヒトにおいても存在します。
一年中、食料に困ることなく、衣服や暖房器具の発達により冬でも快適な気温で生活することが可能となった現代においても、そうした現象は決して無関係ではありません。
気温の低下に伴い、熱を逃がさないために皮膚表面の血管の収縮や体内の血管の拡張が起きたり、体温を生成するために代謝の上昇が起こります。
そして、それに必要なエネルギーを冬に備えて蓄えておくために、秋には皮下脂肪を増加させる作用が促進されます。
きっと「食欲の秋」という言葉も、単に、秋が旬の食材が多いために食が進みやすいという意味だけではないのでしょう。
そうした時期に、エネルギーを発散しすぎると、身体には大きな負担が掛かり、冬季を健康で過ごすことが困難となります。

秋に土中で生長する里芋と同じように、知らず知らずのうちに私達の身体も冬に向けての準備をしてくれています。
身体にもともと備わっている生理作用に追い越されてしまうことのないように、気候の変化への対応を疎かにしないよう心掛けていたいものです。

ドングリ

楽天下

最近、私は、如何に楽な姿勢で眠りに就けるかを大切にするようにしています。
以前は、仰臥位の姿勢を取ると、両足の足趾が外側を向き、下腿後面では外側部が布団に付いていました。
そのような姿勢になることには、ずいぶん前から気付いていましたが、手相のように生まれ持った身体の特徴の一つくらいに考え、特に気に留めていませんでした。
いつからそれが変化したのか、はっきりとは覚えていませんが、近頃は意識しなくても両足の開く角度が小さくなりました。
足部を立てて寝ようと努力した記憶は無いので、身体の使い方を教えて頂く中で、立位の姿勢や骨盤の状態が変わり、その結果として足趾の方向も変化してきたのだと思います。
今は、あえて以前のように足趾を外に開いた姿勢をとると、下腿の外側や膝関節の周辺が突っ張るような違和感を感じます。

他の部位にも意識を移してみると、それと同様の緊張が、あちこちに存在していることが分かってきました。
寝転んでいるときは自然に脱力できているものだと思っていましたが、完全に全身の緊張が緩んだ状態を目指すことが如何に難しいかを感じています。
特に上肢の置き方がなかなか決まらないことが多く、肘関節の向きや、手関節の角度や、手指の曲げ方まで拘りだすと、眠気のあまり気が遠くなりそうに感じます。
自分自身で指先まで緩んでいると感じる姿勢は、毎日少しずつ違い、左右で肢位が異なっていることもしばしば有ります。
その状態で力を抜いたまま繰り返し呼吸をしていると、徐々に緊張している部位が変わってくるため、その都度、より楽な姿勢を取るように心掛けています。
それは、姿勢を調節することによって仮に分散させた緊張が、呼吸に伴う全身の伸縮によって篩い分けられるために起こるのではないかと想像しています。
そうこうしている内に睡魔との争いがさらに熾烈になってくるため最後まで見届けることは困難となりますが、それによって身体のバランスは整う方向に向かうように感じています。

一日の疲労を回復し、次の日を清々しく迎える上で、心地良い睡眠を取ることは非常に重要であると思います。
積極的で活動的な「楽さ」を追求していくことで、心身の状態において落差の少ない生活を目指していきたいと思っています。

瓢箪

陽気比

今日は、二十四節気で「夏至」に当たります。
最近は日に日に日が暮れる時間が遅くなっていることを感じていましたが、北半球では、本日が太陽の南中高度が最も高くなり、一年で昼間が最も長い日となります。
社会人には夏休みが無いことが残念ですが、私は暑いのは割と平気なほうなので、夏は嫌いではありません。
夏休みも後半になると、海水浴に行っても水温が低かったりクラゲが出始めたりして、夏の短さを寂しく思ったものですが、今考えてみると、夏至と暑さのピークが一致しないことがそう感じる理由だったのでしょう。

『陰陽説』では、身の周りの事象を陰と陽のバランスの変化として捉えており、太陽の周期はその最たる例となります。
冬至から夏至にかけては、「陰気」が衰え「陽気」が強くなるために「陰消陽長」と呼ばれ、夏至を過ぎると陰陽の変化が逆となり、夏至から冬至にかけては「陽気」が衰え「陰気」が強くなる「陽消陰長」と呼ばれる状態になります。
つまり、夏至が一年のうちで最も「陽気」が高まり、最も「陰気」が衰える日ということになります。

東洋医学は『天人合一思想』と呼ばれる考え方を基盤としており、人間の身体の状態を自然現象と密接に結びつけて捉えています。
陽は、陰に対して上がる、広がる、明るい、暖かいといった性質がありますが、それは人間の心身においても例外ではありません。
人体における「陽気」は、身体の上部に多く存在し心や肺の働きと関連が深く、身体の外側に多く存在し外邪から身を守る、体温を保つといった作用があるとされています。

季節の変化に合わせて陰陽のバランスを保つためには、夏の「陽気」が高まった時期は、「陽気」を発散することが良いとされています。
具体的には、程よく運動したり、外に出掛けたり、汗をかいたりすることが、それに当たるでしょう。
冷房のかかった部屋で一日を過ごしたり、冷たい飲食物を摂りすぎたりして、充分に陽気を発散できないと、身体内部に熱がこもって頭痛や不眠や下痢といった症状を引き起こします。
また、「陽気」を発散するほど良いというものではなく、過度な労働や感情の昂ぶりによって、「陽気」が頭に上って目まいを起こしたり、「陽気」が不足して外邪の侵入を許してしまう危険性もあります。
「陽気」が多すぎても少なすぎても身体の不調をきたすため、その時々の時候に合わせて、「陰気」と「陽気」とのバランスが取れ、互いに交流している状態が健康であると言えます。

長期の天気予報によると、今年の夏は例年以上に暑くなるそうです。
太陽からの「陽気」を充分に受け取り、疲れ切らない範囲で陽気に楽しんでいきたいものです。

<参考文献>
『東洋医学概論』 著者:教科書執筆小委員会 発行所:医道の日本社
『素門ハンドブック』 著者:池田政一 発行所:医道の日本社

日時計

歩検証

私は、以前から「歩くこと」が好きです。
次の目的地まで一駅二駅くらいの距離なら交通機関を使わずに歩くほうを選ぶことが多くあり、旅行に行ったときは何時間かひたすら歩き続けていることもあります。
特に、交通費を出し惜しんでいる訳でも、運動不足を気遣っている訳でも、他人に頼らず自分の足で歩いて行こうという信念がある訳でもありません。
あまり知られていない名所でも、街角の古本屋でも、変わった形の石ころでも何でも構いませんが、電車やバスで移動すると見逃してしまうような発見があることを、心のどこかで期待しているからかも知れません。
地図で確認した場所であっても、実際に歩いてみると思いのほか遠かったり、道に迷ってしまい予定より時間が掛かってしまうこともよくあります。
しかし、見慣れた土地ではそうした経験をすることさえ出来ないと考えると、それもまた旅行の一つの醍醐味であると言えると思います。
景色を眺めながら歩いている内に、身体の不調が改善していたり、考えがまとまったりしていることもよくあります。
適度なペースでの歩行は、身体のバランスを整えたり、思考のスピードを合わせたりしやすいのかも知れません。

私は長時間歩いてもあまり疲れを感じないほうですが、最近、歩いているときに様々な部位に余分な力が入っていることが気になるようになりました。
特に下腿の後面に力が入っていることが多くありましたが、気付いたときは末梢から順に力を抜いていくように心掛けています。
結果として骨盤内に意識を集めることで、骨盤の回旋を調節できるようになり、それによって、なるべく脚に力を入れずに歩くようにしています。
また、意識の持ちかた次第で、歩き方が大きく変わることを面白く思います。
「早く歩こう」と思うと脚に力が入ってしまうことが多いですが、平地を歩いていても下り坂を下っているような気分で歩くだけで、楽に歩く速度が上がることを感じられます。
おそらく体幹に対する意識や丹田の向きが関係するのでしょうが、それだけで手の振り幅まで変わってしまうのは不思議なものです。

歩道で、前を歩く人、すれ違う人を眺めていると、歩き方も人それぞれであり、歩き方にはその人の身体の状態だけではなく、精神の状態も大きく反映されていることが分かります。
「歩く」というありふれた動作の中にも、自分自身の変化を感じながら日々を過ごしていきたいと思います。

下り坂

飴あられ

私は食物の好き嫌いはほとんどありませんが、間食をするときは甘い菓子を好んで食べます。
ケーキ、クッキー、チョコレート、アイスクリーム、団子、饅頭などは家に置いていることが多いですが、ポテトチップス、おかき、煎餅といった菓子を買うことは滅多にありません。
甘い菓子を挙げると、そのほとんどが砂糖の甘味によるものですが、食物全般でみると甘さにも色々あります。
よく噛んで食べたときの米の甘さ、冷え込んでいる晩に飲むホットミルクの甘さ、他の荷物とぶつからないように大切に持って帰ってきた桃の甘さ、自らの身を守る甲羅を脱がないと成長できない蟹のツメの甘さといった、淡い甘味もまた良いものです。

東洋医学の古典には、食物の身体における働きが書かれており、甘味は脾に関係するといわれています。

心は苦を欲し、肺は辛を欲し、肝は酸を欲し、脾は甘を欲し、腎は鹹を欲す、此れ五味の五臓の気に合する所なり。
『黄帝内経素問』 ~五臓生成篇


「味」には酸味・苦味・甘味・辛味・鹹味の五種類があり、体内に入ると、それぞれ肝・心・脾・肺・腎を養う働きをするとしています。
ここで言う「辛味」は唐辛子の辛さ、「鹹味」は塩の辛さを指しているとされています。
五味を適度に摂ることは弱っている臓腑を助けますが、偏食は身体の調和を乱すことが多く、過度の摂取によって臓器を傷める恐れがあることも記述されています。

現代でも、高血圧症や糖尿病といった生活習慣病を始めとして、様々な症状がバランスの悪い食生活によって引き起こされることはよく知られています。
豊かな食材に囲まれた生活をしていると、ついつい自分に甘くなり、食事の嗜好が偏ってしまうことがよくあります。
自らの不摂生によって辛い闘病生活を送るような苦い経験をせずに済むように、日頃から食生活に気を使い、酸いも甘いも噛み分けておきたいと思っています。


柿

眠肝心

いつの間にか、朝夕が冷え込む季節になって来ました。
朝になって目が覚めても、布団から一歩踏み出す勇気を持てずに葛藤している方も多いのではないかと思います。

「眠り」というのは何とも気持ちの良いもので、私はついつい睡眠時間が長くなる傾向にあります。
私は生来の怠け者ではありますが、それだけが理由で長時間の睡眠を取っている訳ではありません。
むしろ、次の日に怠けずに活動できるように、しっかりと寝るようにしていると言っても良いでしょう。
「寝れば寝るほど色が変わる」という有名な言葉がありますが、気持ち良く目覚めた朝は、頭がスッキリとし、身体は軽く、周りの景色も鮮やかに見えるように感じられます。
睡眠不足であると、明らかに頭の回転や身体の動きが鈍っているのを実感します。
すべきことが分かっていても、今ひとつやる気が出なかったり、身体を重く感じたりします。
誰かと話していても、的確な返答を思い付かなかったり、いつも以上に呂律が回っていないように感じます。

睡眠には、脳や骨格筋を休ませることにより、身体面や精神面での疲労を回復させる役割があると言われています。
特に、目を閉じることにより、ヒトが外界から得ている情報の大半を占めるといわれる視覚を遮断することが、脳を休ませる上での大きな意味を持つようです。
睡眠は内分泌系や免疫系にも関連し、また、体内時計の調整にも大きな影響を与えていると言われています。

そうした小難しい理由など考えることも無く、私達は布団に入ってしばらく時間が経つと自然に眠っています。
最近、私は「考えずに行なっている行為」に関心があるのですが、「眠り」はその最たる例であるように思います。
翌日のイベントに備えて早めに寝床についたのに、却って睡眠不足になったというような経験は誰しもあると思います。
「寝よう」という意志が強すぎると寝付けなくなり、それに対する焦りの感情が湧き上がってくると余計に眠れなくなってしまいます。
さらに、「眠り」とは一体何なのかという難題を真剣に考え始めるような事態に陥ると、もはや眠ることは困難になります。
難しいことは考えずに、瞼の後方辺りから起こり頭全体に広がっていく「眠気」に身も心も任せていれば、気付いたときには朝になっているものです。

文章が長くなってしまったばっかりに、ここまで読んで頂いた方は、すでに眠たくなってきていることでしょう。
その眠気が、明日の心地良い目覚めに一役買ってくれたなら幸いです。

雲海

位置遠効果

私は最近、外を歩くときには、なるべく遠くを見るように心掛けています。
空でも山でも建物でも、とにかく自分の目の高さに映るもので最も遠くにあるものに関心を持って見るようにしています。

今まで私が歩いているときの意識は、比較的近くの風景か数メートル先の地面においていることが多かったように思います。
特にお金が落ちていないか探している訳でも、横断歩道の白線を踏み外さないように遊んでいる訳でも、生け垣から猿が飛び出してこないか警戒している訳でもないので、なぜそうなったのか理由は分かりません。
ただ、それが私が歩いているときの姿勢に影響し、静止しているときの姿勢にも関係しているように思います。
目線に合わせて頭部がやや下方を向いてしまうため、上半身が前傾姿勢になり、体重が前寄りに乗っていましたが、視線を遠方に移すだけでそれらが改善するように感じました。

視線を変えると、通勤で毎日のように歩いている道でも、今まで気付かなかった風景があり、街並みが違って見えるようになりました。
近くの一円玉を探すより、遠くの景色を眺めながら関西一円を散策したいと思う今日この頃です。

トンネル

蚊行くとも

夏になると、知らない間に蚊に刺されていることがよくあります。
刺された後の対処法としては、とりあえず掻いてみたり、爪で×印を残したり、虫刺されの薬を塗ったり、茄子のヘタを貼り付けたりと、人によって色々あると思います。
私の場合は、蚊に刺されても、なるべく「何もしない」ようにしています。
何か別の事に集中して痒いことすら忘れていると、思い出した頃には跡形もなく消えています。
そうした時は、全く意識していなくても、自分自身の身体において常に良い状態に戻す力が働いていることがはっきりと分かり、改めて自然の力に驚かされます。

虫刺されに限らず、多少の変化であれば、余計なことは何もしなくても、もともと備わっている回復力に任せれば自然に治ってしまうということは非常にありがたいことです。
しかし、それに甘え、ついつい不摂生をしてしまうことが、様々な身体のバランス異常の原因となってしまいます。
蚊虻牛羊を走らすことの無いよう、日常生活での姿勢にしても食事にしても、気付いたところから改めていきたいものです。

蚊取り線香

引用五行

今年の「土用の丑の日」は七月二十六日でした。
昨日は食事に鰻を出された家庭も多かったかと思いますが、その由来はご存知でしょうか。

そもそも、「土用の丑の日」というのがどこから出てきたかと言うと、紀元前の中国で広まった「陰陽五行説」に基づいています。
「陰陽説」とは全ての事象を陰と陽という相反する属性の相互関係によって、「五行説」とは万物の成り立ちを木・火・土・金・水の五つの要素によって説明する考え方で、後にその二つの理論が組み合わさり「陰陽五行説」と呼ばれています。
東洋医学も、この「陰陽五行説」に基づいて作られており、東洋医学の古典である『素門』には以下のように記されています。

東風は春に生じ、病は肝に在り、兪は頸項に在り。
南風は夏に生じ、病は心に在り、兪は胸脅に在り。
西風は秋に生じ、病は肺に在り、兪は肩背に在り。
北風は冬に生じ、病は腎に在り、兪は腰股に在り。
中央は土と爲す。病は脾に在り、兪は脊に在り。
~金匱真言論篇 第四 第二節


五行目の「中央は土と爲す」とは、土とは方角においては東西南北の中央、四季においては「土用」であるという意味です。

「土用」を理解するためには、一年(三百六十四日)を
→立春(一日)→春(七十二日)→春の土用(十八日)
→立夏(一日)→夏(七十二日)→夏の土用(十八日)
→立秋(一日)→秋(七十二日)→秋の土用(十八日)
→立冬(一日)→冬(七十二日)→冬の土用(十八日)
に分けて考えます。
「土用」は一年に四回あるため、合計すると四季それぞれの日数と同じ七十二日となり、これが土に属します。

「丑の日」は「陰陽五行説」から発展した「五運六気説」によって決められています。
「五運六気説」とは、十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」と、十干の「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」を組み合わせて年・月・日などを表す際に用いられます。
その中で「丑の日」が選ばれた理由には諸説あるようです。
土は先ほど述べたように、五行説で中央に位置し、「万物は土中に生じ、万物は土中に滅ぶ」とも言われるように、全ての事象は土に帰属すると考えられています。
そのため、土の性質を持つ「土用」と土の性質を持つ十二支の中で最初に回ってくる「丑の日」が選ばれたのではないかという説が有力のようです。
本来、「土用」も「丑の日」も一年間に何回もありますが、現在は、夏の「土用」の最初の「丑の日」を指して「土用の丑の日」ということが多いようです。

引用文に「病は脾に在り」とあるように、土は人間の身体においては、脾と関連が深いとされています。
脾は消化や栄養の運搬に関わる重要な役割を持っており、単に解剖学の脾臓を指すものではありません。
つまり、「土用の丑の日」が一年の中で最もよく脾が働く時期であり、その時期に栄養価の高い鰻を食べることによって、暑い夏を乗り切るための土台を作るという習慣ができたようです。
鰻が選ばれた理由としては、「丑」と鰻の「う」が掛かっていることから始まった歴史上の話もありますが、要約すると節分の巻き寿司と同じように商売の一環として始められたということでしょう。

東洋医学を勉強していると、治療に関することだけでは無く、身近なところでの発見もたくさんあります。
陰陽五行説は決して科学的とは言えませんが、それが今でも日本人の生活に深く取り入れられているということは、現代科学とは違った意味での合理性があるからだと私は思います。

<参考文献>
『陰陽五行説 その発生と展開』 著者:根本幸夫/根井養智 発行所:株式会社じほう
『素門ハンドブック』 著者:池田政一 発行所:医道の日本社

 

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